14歳からの社会学
今回は、社会学者の宮台真司さんが、中高生向けにわかりやすく解説した本を紹介します。
【内容】
「尊厳」には「多様性」も必要
単に「自由」にふるまうだけじゃ、君は幸せにはなれないんだ。そこで「人が幸せに生きる」ために必要な条件を「尊厳(自尊心・自己価値)」ということを軸に考えてみよう。
自由だけで尊厳が得られるだろうか。自由と尊厳はどんな関係にあるのだろうか。
選択肢を知っていて、選ぶことを邪魔するものがなく、選ぶ能力があることが「自由」だ。自由であるにも、能力が必要だということだ。
そういう能力がとぼしい人はどうしたらいいのか。修行すればいいのか。修行している途中で死んだら、うかばれないよ。
能力によって自由を楽しめる度合いが違ってくる。これは本当のことだ。
でも能力がとぼしいからといって過剰にみじめにならず、自分がそこにいてもいいんだ、自分は生きていていいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と考える。それが「尊厳」ということだ。
自由だけじゃ、みんなが幸せになるのは無理だ。自由が別の人の自由をおしのけないようにルールを調整するのは大切だけど、それだけじゃ足りない。
たとえば、社会には文化があって、自己主張が上手な人が得をする文化の国もあれば、協調性が高い人が得をする文化の国もある。
宗教も文化の一種だ。
キリスト教の国ではキリスト教徒は生きやすいけど、イスラム教徒は生きにくい。イスラム教の国ではイスラム教徒は生きやすいけど、キリスト教徒は生きにくい。みんなに平等に権利をあたえても、社会ごとに誰が自由に生きやすいかが変わるんだ。
みんなが尊厳をいだいて生きられるようにするには、自由を尊重しようというだけじゃ足りない。社会が一色の文化に染まっていれば、別の文化の人は生きにくくなる。どんなに「自由にしてもいいですよ」といわれても、自由を利用できるチャンスが限られてしまうからだ。
自由だけじゃみんなの尊厳を支えられない。そこで社会学では、みんなの――より多くの人たちの――尊厳を支えるには、「自由」と「多様性」の両方が必要だと考える。自由だけだと、多数派や強い人たちの色に社会が染まりすぎる。いろんな色が必要なんだ。
「尊厳」と「承認」のメカニズム
人生うまくいかなくても過剰にみじめにならず、自分がそこにいてもいいんだ、自分は生きていていいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と思えることが「尊厳」だった。
実は、君が他者に対して自由にふるまえるためには「尊厳」が必要だ。わかるだろうか。
「尊厳値」が低ければ、他者の前で思い通りにはふるまえない。
能力が理由であれ、性格が理由であれ、信仰が理由であれ、「自分はバカにされるんじゃないか」「自分は許されない存在なんじゃないか」と思わざるを得ない状態で、他者の前で堂々とするのは難しい。
自由であるためには「尊厳」が必要なんだ。
「尊厳」は、君以外の人(他者)から「承認」される経験を必要としている。逆にたどれば、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(「失敗しても大丈夫」感)が得られ、それをベースに君は自由にふるまえるんだ。
1.君が「試行錯誤」する(自由)2.それを他者が認めてくれる(承認)3.「失敗しても大丈夫」感をいだける(尊厳)1.安心してさらに「試行錯誤」する2.・・という循環がある。
人間を社会的に成長させるのは、この循環なんだ。
たとえよう。
1.学校で君がある授業を選んで「この選択はよかった」/「失敗した」と思う2.他者が「よかったね。次もがんばって」/「残念だったね。でも次がんばればいいじゃん」と君に言う3.君は「次もがんばるぞ」/「次はがんばるぞ」と意欲を出す。
子どもが大人になるとは、他者たちと交流する中で「試行錯誤」を繰り返し、「みんなはこういうことを『承認』するんだ」ということを学んで経験値を高め、「自分はたいてい大丈夫」という「尊厳」を得ていくことだ。
昔も今も、そして将来も、永久に変わらない。
宮台真司さんとは
ぼく(宮台真司)の個人史を話そう。
6年一貫教育の私立男子校(麻布中学・高等学校)に入学したとき、中学高校紛争と呼ばれる学校側と生徒側の激しい対立が続いて、数か月間授業がなかった。
紛争が終わったのは中3のとき。あれ果てていた。窓は破れ、ロッカーはこわされ、壁には穴があいていた。
ガンコな理事長や教師という権力が、ぼくたちをしばりつけている。だったら戦ってそれを取りのぞけばいい――。実際戦って、ぼくたちは勝った。じゃあ、それで学校はよくなったのか?ぼくはあれ果てた風景を目の前にして、マジで頭をかかえてしまったんだ。
一番ひどかったのが、ぼくたちの学年だった。
ぼくたちの大学受験について、教師たちは「こいつらはもうダメだ」ってあきらめていた。ところがどっこい。いざフタをあけてみると、まともに授業を受けなかったぼくたちが、いまでも歴代1位の進学実績を残したんだ。
ぼくたちの学年にはすごいエリートがいっぱいだ。エリート教育を考えるときに大きなヒントになる。ぼくたちは戦いに勝ったのに学校はメチャクチャになった。何もたよれないから、なんでも自分の頭で考え、自分の力で前に進むしかなかった。それが実績につながったんだ。
誤解しないようにいうと、ぼくのいう「エリート」は、昔の日本社会で通用した「東大→官僚=自己実現」みたいなタイプの人間じゃない。「幸せは人それぞれ」のいまの社会で「それでも多くの人が幸せになれるルールがあるはずだ」と考えられるタフな人間のことだ。
自由とは自分で自分を支えること
あとからふり返ると、その時期の経験が、いまのぼくの考え方やものの見方に大きく影響していることに気がつく。ぼくは、何もかも疑って日本的常識をこわす社会学者として知られている(悪名が高い)。そうした社会学者としての土台は、そのころ(学生時代)にできたんだね。
ぼくたちは自由だった。何をしても文句はいわれない。でもすぐにそれが問題だとわかった。教師たちにしばられて命令されていれば、何をしていいかわからないということはない。ガンコな理事長みたいな敵がいるときも、戦えばいいのだから迷うことはない。
ところが戦いに勝って、ガンコな教師も理事長も学校をやめて、自分たちをしばりつけていた障害がすべてなくなったとき、ぼくたちは何をすればいいのかわからなくなって苦しむようになった。自由とは自分で自分を支えることだ。でもこれが苦しくて難しいんだ。
でも、おかげでぼくたちにはチャンスが与えられた。自分は何者なのか、本当は何がしたいのか、何を他人にほめてもらいたいのか、何をダメだといわれたら苦しいのか、徹底的に考えることになった。こういう経験がなければ、いまのぼくはなかっただろうと思う。
こういう中学高校時代の経験を通じて、中身がないくせに、役割や組織の力というゲタをはいていばっている人間と、そういったものを一切たよりにしないけれど人間としての力にあふれている人間とを、区別できるようになった。これはいまのぼくの能力でもある。
それと同時に「生きる場所が違えば、感じ方も考え方も違う。みんなが同じ感じ方や考え方をしろと簡単にはいえないな」と思うようになった。これもいまのぼくの考え方そのものだ。学校の中と違って世の中には「ひとつの答え」が見つからないことばかりだ。
だから「これさえあれば人間は幸せ」ということはない。
ぼくが紛争の経験から学んだように、自由になれば学校がよくなるとはいえない。でもメチャクチャな学校こそが人を育てることもある。社会も同じだ。いい社会を単純に考えちゃダメなんだ。
悪い社会は人を不幸せにする。ぼくは社会学者としていい社会にしようと努力してきた。これからもそうしようと思う。でもそれが成功しても、みんなが幸せになるとはいえない。みんなを幸せにしたくても、幸せを単純に考えちゃいけない。
もちろん、実際いまある多くのルールには、管理する側の都合のよさとか、ルールを作れる権力を持った人々が自分の利益を守ろうとするエゴイズム(自分中心主義)がある。
ぼくは、それを当然批判していく。
でも、その程度のことでみんなが幸せになれるわけじゃないんだ。
宮台真司さんが大人向けに語られる理論は、わたしの頭では難解すぎて半分以上わからなかったりするんですが、
こうやってわかりやすく、かみ砕いて説明されると、あらためてそのすごさが実感できます。
ただ正直に申し上げて、この本はけっこう過激です。だからこそおもしろかったりもするのですが…。
宮台さんの意見や、他の社会学者の意見を比べるなどして、自分の成長につなげていきましょう。
参考文献
あたしたち夏バテでちょっとムリ・・・
Voice actor laboratory 声優演技研究所
夕凪の街 桜の国
原爆投下を正当化する議論で「戦争終結を早め、数え切れぬアメリカ兵の命を救った」というものがあります。
また「真珠湾を攻撃し戦争を始めたのは日本だ」ともいわれます。
ただ間違えてはならないのは「夕凪の街 桜の国」の登場人物たちは巻き込まれただけなんです。
戦争を始めたのは、この人たちじゃないんです。
たまたま日本の広島という町に生まれ育っただけの人たちなんです。
まったく関係のない人たちが巻き込まれて、つらく重い荷物を背負わされてしまうのが戦争なのかなと感じました。
【あらすじ】
夕凪の街の主人公、平野皆実さんは物語の冒頭でノースリーブのワンピースを着ることをこばみます。
理由はやけどを負っているからです。
銭湯の場面で腕にやけどがあるのがうかがえます。やけどの原因は原爆です。
そのせいでしょうか、平野さんは恋愛にも積極的になれません。
そんな平野さんに初めて恋愛の対象となる男性が現れます。
が
と、いうお話です。
明日は、8月6日ですね…。
「夕凪の街 桜の国」とってもいい作品です。おススメします。
わたしの勝手な想像なんですが、「桜の国」の主人公、石川七波さんは「夕凪の街」の平野皆実さんの生まれ変わった姿だったらいいな、なんて思っています。
「ガリレイの生涯」の覚え書き
原爆投下の日を合衆国で体験したすべての人にとって、この日は忘れがたい日になるだろう。
対日戦争は、合衆国に事実大変な犠牲を払わせたものであった。部隊の輸送の出発点となった西海岸に、負傷兵やアジアの風土病の犠牲になった者が送り返されてきた。
原爆の最初の新聞報道がロサンゼルスに届いたとき、人びとはこれが恐ろしい戦争の終結と息子たちの帰還を意味するのだということを直(ただ)ちに悟った。
しかしこの大都市は、驚くほどの哀悼の意を表したのだ。
この台本の作者(ブレヒト)は、バスの運転手や青果市場の女売り子たちが、恐ろしいことだとしか話していないのを耳にした。
それは勝利ではあったが、敗北のもつような恥辱をともなっていた。
そのあと、軍部と政治家によって、この巨大なエネルギー源のことは極秘にされるようになり、そのことが知識人たちを怒らせた。
偉大な物理学者たちは、好戦的な政府に仕える職場を放棄した。
最も有名な学者のひとりは、自分の研究の時間を、一番初歩の基礎コースを教えることに費やさなければならないような教職にありついたが、それは、こういう官庁のもとで研究することを避けるというだけの理由でそうしたのだった。何かを発見することは非難に値することになった。
ガリレイの犯罪は近代科学の「原罪」と見做(みな)すことができるであろう。ガリレイは天文学を、厳しい限界のある特殊科学にしてしまった。
原子爆弾は、技術的な現象としても社会現象としても、ガリレイの科学的な業績と、社会的な機能停止の生みだした古典的な最終生産物である。
(1947年)
参考文献
Voice actor laboratory 声優演技研究所
夏休みの自由研究
今回紹介するのはタガメの本だよ。
タガメは大食漢で、たくさんエサを食べます。
タガメが生きていくためには、多くの生き物であふれる豊かな自然が必要なんです。
だけどタガメはどんどん数が減っていて絶滅が心配されています。つまり自然環境が悪化しているんです。
そのためにも「ストップ温暖化」次世代の子供たちのためにも、どうすればいい世の中になるのか考えることは大切です。
それにタガメは、オスが卵を守ります。メスではありません。男性が子育てをする時代を先取りした生き物です。とても好感が持てますね。
えっと、そんな話を交えながら今日もレッスンを行いました。
本日は「オンディーヌ」第十二場、女同士の丁々発止、バトル場面を練習しました。
すっごくおもしろいレッスンになりました。がんばってくれた生徒の皆さま、ありがとうございました。
それでは、また来週!
参考文献
タガメのいるたんぼ ふしぎいっぱい写真絵本 ポプラ社
たしか冷夏っていってたよね・・・・。
Voice actor laboratory 声優演技研究所
暑中お見舞い申し上げます
・・・!
ウフ・・・♪
・・・・
きゃあきゃあ
か゛あ゛あ゛あ゛・・・
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あなたが笑えば世界も笑う。その2
【ケーキの味は、その材料の単なる合計を超えたものである】
昨日のブログを、もう少し深く掘りさげてみましょう。
【内容】
たとえば一番いい例が、ロビンソン・クルーソーの物語だ。
難破して離れ島に流れ着いてしまったロビンソン・クルーソーという人が、たった一人ですべてのものをつくり出していくという物語。この話は『資本論』にも出てきます。
分業することで豊かになる
ロビンソン・クルーソーのようにたった一人で食べ物を集めるのは、なかなか大変だよね。それぞれ別々に、肉をとる人は肉をとることに専念し、魚をとる人は魚をとることに専念したほうがたくさんとれる。
社会全体で見れば、そのほうがたくさんとれるんだ。
その魚と肉を交換すれば、どちらも肉も魚も食べられる。それはそれぞれが別の仕事をしたからなんだ。これを「分業」といいます。
みんな別々の仕事をしている。分業しているから社会の富はだんだん豊かになってくるし、みんな、それぞれ他の人にとって役に立つものを交換しようとやっているから分業というのは成り立つわけです。
たとえばあなたが身の回りの生活に必要なものを全部一人でまかなおうとすると大変だよね。
まず自分の下着からつくらなければいけない。
そのためには、布の素材になるコットンも自分でつくらなければいけないでしょう。
食べるものだって、海に魚釣りに行っていたら、それだけで一日が終わってしまって、一日が終わっても食べ物にありつけなかったりするよね。
-
チョコレートを作るには、カカオの栽培から始めなきゃならないの?絶対ムリです。バレンタインのとき困ります。
お菓子会社の戦略に乗せられないように気をつけてね…。
でも、今は分業になっているから、あなたがそんなことをしなくても、レストランに行けば食事ができるし、下着も洋服も買うことができる。
こういう社会的な分業が成り立っているからこそ、私たちの社会には富が蓄積されたんだ。
ひとりひとりが自分ですべて生産していたら、とても大変。
みんながいろいろ分業することによって社会が成り立っているし、その分業というのは、交換が成立しているからなんだよ、ということだね。
頁63−64
みんなが役割を分担して、つくったものを交換していくことで、社会は豊かになっていくんだね。
だからこそ昨日のブログでも紹介した「つながり」が大切なんですね。そのためにもケンカしないで仲良くしましょうね。
参考文献
池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」 集英社
ストップ温暖化
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あなたが笑えば世界も笑う。
人と人との気持ちがつながるのは、「小麦粉がケーキに化ける」みたいなものですね。
どういう意味? 説明するね。
【内容】
社会的ネットワークは、ありとあらゆるものを人から人へ運ぶのである。
流れを決定する基本的要素の一つは、相互に影響し合い、真似しあう人間の傾向である。
- 勉強熱心なルームメイトと同室の学生は、よく勉強するようになる。
- 大食漢の隣で食事をする人は、食べる量が増える。
- 隣人が庭いじりする人だと、自分も芝生を手入れするようになる。
人が人に影響を与えるこの単純な傾向は、直接のつながりの先を考える際に驚くべき帰結をもたらす。
人は友人だけを真似るわけではないことがわかっている。友人の友人や、友人の友人の友人、さらにその先をも真似るのだ。これは二者関係を超えた拡大、つまり直接の社会的絆を超えて、人から人へと影響が広がっていく傾向の一例である。
スポーツイベントで見られるウェーブについて考えてみよう。
この現象が初めて世界の注目を浴びたのは、1986年にメキシコで開催されたサッカーのワールドカップでのことだった。
実のところ、立ったり座ったりする一個人の行動を研究しても、その波は理解できない。クーラーボックスの上でメガホンを手にした誰かが音頭を取っているわけではないのだ。
鳥、魚、昆虫などの群れは調和した動きを示す。この種のグループの動きは中央でコントロールされているわけではないが、そこには一種の集団的知性がはっきりと見てとれる。この知性のおかげで、グループ内のすべての個体が捕食者を逃れたり怯(ひる)ませたりできるのだ。
この点について、私たちは、社会的ネットワークには創発性があるという言い方をしている。創発性とは、部分が相互に作用し合いつながり合うことによって、全体が獲得する新しい特性のことである。
創発という考え方を理解するには、次のようなアナロジーが役に立つ。
ケーキは、その材料のいずれとも違う味がする。また、それぞれの材料の味を平均しただけの味でもない。たとえば、小麦粉とタマゴの中間の味がするわけでもない。そんなものよりずっとおいしいのだ。
ケーキの味は、その材料の味の単なる合計を超えたものである。
人間の場合も同じように、社会的ネットワークを理解すれば、いかにして全体が部分の合計よりも大きくなるかが理解できるのだ。
人と人とが理解し合い「つながる」ことによって、とても大きなものが生み出されていくんだね。
いいものを真似して平和な世の中になることを願っています。
参考文献
つながり 社会的ネットワークの驚くべき力 講談社
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読解力の伸ばし方
【内容】
日本人は「知らない」ことが恥ずかしいことであると思いがちです。知らないことに出会うと、自分に対するプライドから「知ったかぶり」をして、さも知っているかのようなふりをする。それでは「読解力」は身につきません。
ソクラテスが説いていたように、自分の「無知」を知ること。【注】そして自分の知らないことが世の中にはたくさんあることを常に念頭に置いて「なぜ」「どうして」という「?」を見つける名人になれば、今自分がどのようなテキストを読めばよいのか、自然に見つけることができます。さらには、読解力を伸ばし、より充実した生活を送るためにはどのような本を読めばいいのか、ということもわかってくるでしょう。
「自分の中に常に複数の考え方を持つこと」
つまり、「もしかしたらこの意見は間違っているのではないか?間違っているとすれば他にどういう考え方があるだろう」とあらゆる場面で想像できるということです。
このような思考スキルを私は「批判的リテラシー」と呼んでいますが、この「批判的リテラシー」こそが、読解力を高める本当の意味での原動力なのです。
たとえば「鳥のように飛びたい」と考えたライト兄弟は、周囲の人たちに「気が狂ったのではないか」と囁かれていました。
当時ライト兄弟の周りにいた人々は、誰も飛ぶための工夫や努力をせずに、無理だと決めつけていました。それこそが「批判的リテラシー」の欠けている典型です。それに対してライト兄弟は「批判的リテラシー」を持っていたのです。
「そんなのは無理だ」という人は、なんの根拠もなく「無理だ」と発言するケースが多いのです。そういう人は「もしかしたらそうじゃないかもしれない」という発想がない。チャレンジするというスピリットを身につけていくためには、通俗や俗説に対して、常に「批判的リテラシー」をもって行動することが大切です。
客観的視点がとぎすまされることで、目の前にある情報を鵜呑みにしない読解が自然にできるようになってきます。
そういう意味で、自分の考えにも「本当にこれで正しいのか。この考えとは別にどういう考え方ができるのか」という疑いの目を向けることができる状態は、多角的視点としては最高レベルの域に達しているといえます。
ここで述べられている「批判的リテラシー」は、過去の日記でも紹介した「当たり前をうたがう」ことで、ブレヒト演劇の【異化効果】と同じですね。
今日はこのような話を交えながら「オンディーヌ」と絵本の朗読レッスンを行いました。
今までが涼しかったせいか、今日はもう暑くて暑くてサイテー最悪でした。
家や稽古場にいるときは感じなかったけど、外に出たら「ウソでしょ、なにこれ?」みたいになっちゃいました。
みなさまもお体にはくれぐれもご注意ください。それでは、また来週。
参考文献
読解力を劇的に伸ばす大人の「思考ノート」のつくり方 宝島社
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