非色(ひしょく)有吉佐和子
非色は、敗戦後まもない日本に駐留していた黒人兵と結婚した〝戦争花嫁〟笑子(えみこ)が体験する「人種差別」のお話です。
だけど難しい小説では全然ありません。
敗戦後すぐの日本の日常や、アメリカに渡った笑子を待ち受けていた、黒人だけでなく白人の間にもあった人種差別が、とてもわかりやすい文章で書かれています。知らなかったことがいっぱいで、すごく勉強になりました。
大好きな川端康成とくらべてみる
「登場人物の気持ちを、はっきりと示さずに仄(ほの)めかすのが文学の特徴」と、昨年11月4日のブログに書きました。
たしかに川端文学には、そういった傾向がみられます。
しかし有吉佐和子の文章は、まったく違いました。読みやすくてスイスイ頭に入ってきます。それでいて奥が深いのだからすごいですね。
そんなわけで「非色」の、心に残った言葉たちを紹介します。
非色(ひしょく) 有吉佐和子
青春期の前半は、私は学徒報国隊という腕章を巻いて旋盤工として夢中で過していた。
夜は工員宿舎の一部に泊って、女学生たちはみんなそれぞれの家庭の事情とは関係を断った暮しをしていた。
警戒警報。待避。警戒警報。
戦災で家を失い、敗戦と共に工場に別れを告げた私は、母と妹と都心を離れた焼残りの家の二階一間を借りて暮すようになったが、そのときでも貧乏というものの実感はなかった。東京はまっ赤に灼(や)け爛(ただ)れて、富者や金持と呼ばれる者も一なぎに壊滅してしまったかに見えた。右を見ても左を見ても焼け出された人々ばかりで、おまけにひどい食糧難時代だ。みんなが飢えていた。
近郊の人々は食べ物を担いで出て来ては闇市をつくり、怪しげな饅頭(まんじゅう)握り飯などから売り始めていた。それを買うために、私はどうしても働かなければならなかった。焼けなかった人々は、まだ金に換える何物かを持っていたが、焼け出されの私たちは一文無しというよりもっとひどい状態だったのである。
日本の会社がまだ働き出さないとき、人間を雇ってくれるところは進駐軍関係の仕事しかなかった。
私は有楽町の駅の傍にある進駐軍が暫定的に経営しているキャバレーのクロークになった。日給制だった。一日わけも分らず動いているだけで翌朝の五時には一斉に帰りがけに百円札を渡してくれた。
百円。
私はその紙幣を摑(つか)みしめて飛ぶようにして家に帰ったのを覚えている。
私の母は涙を流しながら、それでその日のうちに一升の闇米を買った。早速炊(た)いた銀めしの目にしみるように白かったことも、立上る湯気の匂いに気が遠くなりそうだったときのことも、私は決して、忘れることはないだろう。
「トムは私に完全に参ってるのよ。私の云いなりになるわ」
私がトムと結婚しようと云い出したとき、私の母の態度は急変した。
「とんでもないよ、笑子。なんだってそんな気を起したのだい?いけません、そんなこと、母さんが許しません」
私は驚いて狂ったように眼を血走らせている母の顔を見ていた。
大概のことは私は隠しだてなく母に喋っていて、彼が結婚申込みをしたことだって私は話していた。
だから、私が結婚するときめたからといっても、彼女が驚く筈はなかったのだ。ましてこんなに猛然と反対したり私を非難したりするなどとは私は思ってもいなかったのである。
「笑子、あなたのお父さんは立派な人だったんですよ。林家というのは士族です。貧乏こそしていたけれど、誰にも後ろ指を差されるような家柄ではありません。
あんな黒い人と結婚するだなんて!私たちは世間さまに顔向け出来なくなるじゃありませんか。御先祖さまにどうやってお詫(わ)びをするんです?
娘が外国人と、それもアメリカ人ならともかく、あんなまっ黒な人と結婚するなんて!冗談だって母さんは許しません!」
シゾクとかイエガラとかゴセンゾサマなどという突飛な言葉が母の口から出てくるのに私は呆(あき)れていた。どうして急にそんなことを思い出したのか見当がつかなかった。戦前も戦争中も、こんなことを私の母は云ったことがなかった。
「トムはアメリカ人よ。冗談でなく、私たちちゃんと式をあげて結婚するのよ。私はふしだらなことをするんじゃないわ。それに母さんは私がトムと交際しているのを一度だって嫌がったことなかったじゃないの」
「まさか本気だとは思わなかったんだよ」
「じゃ、何がいけないの?確かにトムは二グロだけど、気持の優しいいい人だってことは母さんだって知っているじゃありませんか。結婚するのが何故いけないのよ」
「だって、まさか黒ンぼと・・・」
「トムが私を好きなのは母さんも知ってたじゃありませんか。それでほとんどタダみたいなことでトムの運んで来るものを売って結構に暮していながら、結婚だけはいけないというのは理屈にならないわ」
「理屈で反対してないよ。笑子はあの黒いのに抱かれても嫌じゃないのが、母さんには怖ろしいんですよ。どうして笑子は気味が悪くないのかねえ」
その日私は母に対してトムと結婚すると宣言したのではなかった。私も幾分か迷う気があって云い出したことであった。
だが、この最後の母の言葉が私に決意を強(し)いた。母の言葉に私は強い反撥(はんぱつ)を覚え、そして同時に私はトムとの結婚に踏切ったのであった。
私はメアリイをつれて、なんでもいいから人の集まるところを歩きまわってみたかったのだ。
私はメアリイに盛装をさせた。レースのベビー帽に、レースの華やかな袖なしのドレス、それに白いソックスと白い革靴。
私もこの素晴らしい娘に負けないだけの盛装をしなければならなかった。
私は肩に布団のようなパットの入った流行のブラウスを着て、新調のロングスカートに栗色のハイヒールをはいて、黒いピカピカのビニールバッグを肩から提(さ)げた。どれもこれも当時の日本の女たちが羨ましがるようなものばかりだったが、私にはPXで格安の値段で買えたのである。
こうして私たち親子は颯爽(さっそう)と外へ出たのであった。
私は軽やかに手をあげてタクシーを止め、新宿へ行くように命じた。女王さまと王女さまを乗せた木炭車は、東京中で一番早く復興した街へ向って踊りながら走り出した。
タクシーから降りた私たちを、人々ははっとした表情で振返り、メアリイを仔細に点検し始めたとき、大きな変化が一時に現われ出た。
「おい、黒ンぼの子だよ」
「ほんとだ、小(ちっ)ちゃくても黒いんだね」
「ゴム人形みたいだ」
「黒ンぼだよ」
「混血児(あいのこ)だろ」
「そうだろうな。しかし黒ンぼだぜ」
「親爺にだけ似たんだろうな、可哀そうに」
「おい、おい、見ろよ。見ろったら」
「黒ンぼの子だ、黒ンぼの子だ」
四方八方から、いや、天からも地からも聞こえてくるこの声から、私はどうやってメアリイを守ったらいいのか分らなかった。
メアリイの顔は恐怖で歪(ゆが)んでいた。
思えば迂闊(うかつ)な親であった。私の母は私が妊娠したときからこのことを懼(おそ)れていたのではないか。みんな、ひどい目を見ないうちに気がついていたのに、私はなんという愚か者だったろう。思い知らされるまで、私は思い知らなかった。
トムに帰国命令が下ったとき、メアリイは三歳になっていた。
トムは七年前に召集されたニューヨークに戻り、そこで除隊されるのだという。
「帰って、僕の家族を迎える準備をする。一年以内に必ず呼ぶ。いいね」
とトムは繰返し私の肩を抱いて云ったが、私は曖昧(あいまい)な顔をして肯(うなず)いていた。
この私が、生れた日本を離れてアメリカへ行く。それも終生そこで暮すために——などということは私には考えられなかったのだ。
トムの帰国は事実上私たちの離婚だ、と私は考えていた。
なぜなら、結婚式もあげ、子供も産み、幸福に暮していた国際結婚が、軍の帰国命令で実にあっさりと解消されてしまう例を私は既に多く見ていたからである。
戦争中、ボルネオやスマトラへ出かけて行った日本の兵隊たちが、終戦後は現地妻を残して日本へ帰り、涼しい顔をして日本人の女と平穏な結婚生活を営んでいるのも、私たちの周囲では珍しい話ではなかった。
現地妻——アメリカ兵にとって、日本の女がそれではないとどうして云えるだろう。
これがアメリカなのだろうか、本当に・・・?
ハアレムと呼ばれている区域は125丁目から155丁目までの、東西にまたがる広いところだったが、そこへ一歩踏みこんだ私は、辺りの光景にしばらく呆気(あっけ)にとられていた。
貧民窟!
云ってしまえば、それであった。
絵葉書などで見たニューヨークは、まるでお菓子で作ったような形のいい美しいビルが立並んで、空も青ければ街行く人々はトップモードで身を包み、華やかで豪華な雰囲気が充満した都会のように思われたのに、私のアメリカ第一日に見た総てのものには、その片鱗(へんりん)さえなかったのである。
私達の家は——地下室だった。
何十階建てのビルが並ぶ大都会の中で、誰が地下室に住むことなど予想できただろう。私は胸の潰(つぶ)れるような思いで、階段を降りて行くトムの後に従ったのであった。
正確には半地下室と呼ぶべきかもしれない。それは下半身だけ土に埋った家のようなものであった。
金網を入れてかためたガラス窓が通りに面してついているので、家の中は電気をつけなくても、なんとか鈍い明りが漂っている。鰻(うなぎ)の寝床のように細長い部屋が一つと、その奥に狭いキチンと便所がある——というのが私たちのつまりこれから親子三人が暮して行くアメリカの城なのであった。
「日本料理店が?」
「ああ、55丁目だってよ」
私はもう矢も楯もたまらない気持で、ホテル・ブルボンの事務室の前に立っていた。いつ開店するのか。ウェイトレスに応募するにはどうしたらいいのか、訊くつもりだった。
レストラン・ナイトオの開店日(オープニング)は素晴らしかった。
私のニグロなまりの英語は、またしてもここでは糾弾(きゅうだん)されることになった。ここは日本を代表する一流の店であることを忘れるなというのが、ナイトオで働く日本人のモットーなのである。そしてニグロの英語は、決して一流のものではないのだった。
それが生活と直接の繋(つな)がりのあるところから私は必死になってニグロなまりを直そうと努力した。
この方の指導は専(もっぱ)ら大学教育を受けた秘書がしていた。彼女に云わせると日本式の発音や下手な英語の方がニグロなまりよりはずっと客の感じをよくさせるということだった。
外国人の使う日本語でも、舌足らずや文法の間違いは愛嬌があって悪くないが、下品な日本語、崩れた日本語、乱暴な日本語がアメリカ人の口から出ると実に嫌なものだと私も経験して知っていたから、これは確かに彼女のいう通りだと納得することができたが、それにしてもそういう野卑な言葉を私は知らず識らずの間に使っているのかと思うと情けなかった。
私のように直そうと思い、少しずつでも直っている者はまだよかったが、竹子は直される度に、すぐ忘れてしまって、たとえばこんな具合の英語を使うのである。
「サシミはまだ出来ないんだ。でも研究してるからな、待ってろよ。うん、スキヤキにするか。二人前か。あとは天ぷらにするか」
これでは秘書嬢が金切り声をあげるのも無理はなかった。
「あんた、やっぱりそうやったで!」
彼女は眼を輝かしていた。
「志満子の亭主はイタ公や」
「イタリヤ人?」
日本からの船の中で絶えず見下されていたのが、これですっかり溜飲(りゅういん)が下ったと云って、竹子は晴れ晴れとした顔をしていた。
私もそろそろニューヨークを見渡すことができてきていて、白人の社会にも奇妙な人種差別があることに気がついてきていた。
ジョウヨークと呼ばれるくらいユダヤ人の多いところであったが、それでもユダヤ人は陰では指さされているようであった。
アイルランド人も、白人の中では下層階級に多く属しているようであった。
イタリヤ系の白人はなぜか軽んぜられていた。汚物処理車に乗っているのはイタリヤ人が多かったし、イタリヤ料理店は二、三の例外はあったが他は最も安上がりな大衆食堂であった。彼らの職種で代表的なものは、魚屋、床屋、洗濯屋で、それらは他の白人たちの経営するものより料金が安い。
イタリヤ人。いや、イタリヤ系のアメリカ人を、日本にいるとき誰が識別することができただろう。あの当時、ニグロでさえアメリカ人だったのだ。まして色の白いイタリヤ系の男を、誰が本国で軽視されている人種だということに思いついただろう。
麗子の夫の格好はというと、これは相変わらずお粗末の極みだったのだ。夏の間中着ていただんだら縞の丸首シャツに、ジーパンをはいて、上にはもう今から皮ジャンパーを羽織っている。
皮ジャンパーといえば日本でこそ金目のもので、金持の息子や中年男の遊び着と思われているけれども、ニューヨークではこれはギャングか最低生活者のユニフォームみたいなものなのである。
「ねえトム、一度私の友だちを家に呼びたいんだけど、どうかしら」
「ナイトオで働いている連中かい?」
「そうよ。竹子と麗子の二人。日本を出るとき船で一緒だった人たちなの。本当は志満子も呼びたいけど、竹子と仲が良くないし、私もあんまり好きじゃないから」
「その中でプエルトリコの亭主持っているのは誰だね?」
「麗子よ」
私は答えた。
「そりゃ美しい人なの。トムも会ったら、きっと吃驚(びっくり)すると思うわ。まだ二十二か三で若いし、色が白くて、眼が大きくて、本当に魅力的な娘(ガール)よ」
「なんだってそんな素晴らしい娘がプエルトリコにひっかかったんだ?」
「さあ、それなのよ。日本人にはプエルトリコ人なんて知識がなかったんだもの。単純にアメリカ人だと思ってしまって、それで結婚したんでしょ。麗子の家は、かなりいい家なんだけど」
メアリイが、口を出した。
「プエルトリコ人の子が、私たちの学校にも来ているよ。きたない服を着て。でも女の子は、とてもバアバラに似てる」
「何を云うんだ、何を!」
トムが白い眼を剝(む)いてメアリイに喰ってかかった。
「メアリイ、いいか?バアバラはお前のお父さんとお母さんの子供だよ。お父さんはアメリカ人で、お母さんは純粋の日本人だ。それでどうしてバアバラがプエルトリコ人に似てるんだ?」
「でも、髪が黒いし、眼も黒いし・・・」
「いいか、バアバラは、アメリカ人だ。プエルトリコ人とは違う。二度と云ったら承知しないぞ」
メアリイはおずおずしながら、もう一度訊き返した。
「違うとも、プエルトリコ人はプエルトリコ人だ。あいつらは最低の人間で、アメリカ人じゃないんだ!」
ニューヨークのプエルトリコ人をみる人々の眼を考えてみると、私にはどうしてもニグロが白人社会から疎外されているのは、肌の色が黒いという理由からではないような気がしてきた。
白人の中でさえ、ユダヤ人、イタリヤ人、アイルランド人は、疎外され卑しめられているのだから。
そのいやしめられた人々は、今度は奴隷の子孫であるニグロを肌が黒いといって、あるいは人格が低劣だといって、蔑視することで、自尊心を保とうとし、そしてニグロはプエルトリコ人を最下層の人種とすることによって彼らの尊厳を維持できると考えた・・・。そしてプエルトリコ人は・・・。
金持は貧乏人を軽んじ、頭のいいものは悪い人間を馬鹿にし、逼塞(ひっそく)して暮す人は昔の系図を展(ひろ)げて世間の成上りを罵倒する。
要領の悪い男は才子を薄っぺらだと云い、美人は不器量ものを憐み、インテリは学歴のないものを軽蔑する。
人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたいのではないか。それでなければ落着かない、それでなければ生きていけないのではないか。
ハアレムに住み、ニグロばかりの中で暮してみると、眼のさめるように美しい人もいるし、驚くほど頭のいい学生にも出会う。
愚鈍な人間も多いけれども、白人だって日本人だって馬鹿な男の数は決して少なくないのだ。
ふつうの小説、近代文学は「かっこいい個人を描く」んです。【高橋源一郎】
「非色」の主人公・笑子はまさしくそういう女性です。悩み苦しみ、時には間違いながらも、少しずつ一歩一歩着実に成長していきます。かっこいいです。*1
「この小説は想像や思いつきでは書けないな。実際に自分が体験したか、体験者から取材をしないと・・・」と思い調べてみると、
有吉佐和子さんは、しばしば国内外へ取材旅行に出かけ1959年から1960年にかけてロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に9か月間留学していたそうです。
『非色』は、その四年後1964年に中央公論社から発行されました。綿密な取材の結果が、この小説の奥深さにつながっているのでしょうね。
最後に、大好きな川端康成「燕の童女」の言葉を紹介させていただきます。
世界中の人種が雑婚の平和な時代は、遠い未来に来るであろうかと、ぼんやり考えた。
参考文献
非色 新潮社
非色を読んでいて、「だからイタリアン・マフィア…」「だからウエスト・サイド物語…」と、パズルのピースが埋まるみたいに、いろんなことが見えてきましたね。
差別されるからこそ、自分たちを守るために結束し、争いが生まれてしまう…。いい世の中になってほしいものだにゃ。
パンドラの箱とプロメテウスの火
「箱の中に、希望が残った」で知られる、パンドラは人類初の女性なんですね。
旧約聖書(ユダヤ教・キリスト教)では、アダムとイヴの「イヴ」が人類最初の女性です。
が、
「パンドラの箱」のエピソードがある「ギリシャ神話」では、パンドラが人類初の女性なんです。
パンドラって、どんな女性
それまで男性しかいなかった人間社会をメチャクチャにしよう、というゼウスの企(たくら)みで生み出されたのがパンドラです。
ゼウスは鍛冶と工匠の神ヘパイストスに命じて、土を水でこね、恋心をさそう美しく恥じらう乙女の像をこしらえさせました。
アテナは帯と衣でこの像を飾り、カリスたち(カリテス)とペイトが黄金の首飾りをかけ、ホーラたち(ホーライ)は春の花で花冠を作って乙女を飾り
そして極めつけなのが・・・
ゼウスはヘルメスに、この生き物にメス犬のような恥知らずとずるい心を吹き込むように命じるの。
ヘルメスは支配者ゼウスの命じるままに、乙女の胸に、ウソ、へつらい、ずるさを植え込んだのね。
神々の使者は乙女に声を与え、「すべての贈り物である女」を意味するパンドラと名づけたのが、ギリシャ神話における人類初の女性なわけ。
こうして、この乙女から女の種族が生まれたのです。
とんでもねぇ話だな・・・。
だけど、なんでゼウスはそんなことしたのかな
それは「プロメテウス」が関係しています。
プロメテウスの火
プロメテウスは、神々の独占物であった火を盗み、人間に分け与えたの。
そのことでゼウスの怒りを買ったプロメテウスは、頑丈な鎖でカウカソス山の岩山につながれてしまいます。
それもただの拘束ではなく、生きたまま鷲(ワシ)に肝臓をついばまれ、夜間にそれがすっかり再生、翌日またついばまれるという、恐怖と苦痛が永遠に繰り返されるひどい刑罰を受けたんです。
火を盗まれたことに対する怒りは、プロメテウスを罰しただけでは収まらず、ゼウスは人間にも罰を下すことにしたの。
それでパンドラが生み出されたってわけ。
じゃあ、なんでプロメテウスは、人間に火を与えようと思ったのかな
賢者プロタゴラスの物語によると
神々は大地のなかで、土と火と、これらの元素をまぜあわせたすべてのものから人間を創り出しました。
神々はプロメテウスとエピメテウスの兄弟に命じて、それらの生きものに身支度をさせ、各々にふさわしい能力を分け与えました。
弟のエピメテウスは兄プロメテウスに、その能力の分配を自分一人でさせてほしいと頼みました。
ところが、このあわてものはすべてのものを動物に分け与えてしまったため、人間はまったく身を守るべき蔽(おお)うものもなく、裸でいることになってしまいました。
そこでプロメテウスは、ヘパイストスと女神アテナの火と技術をこれら二人の神殿の仕事場から盗み出して、人間に与えねばならない破目になったのです。
それ以来、人間は生きることができましたが、——罪はエピメテウスにあったにもかかわらず——プロメテウスが罰せられてしまったのね。
このプロメテウスの火のエピソードは、ソフィストのプロタゴラスによるものです。*1
異なる「プロメテウスの火」の物語もギリシャ神話にはあるようですよ。*2
他にもある「プロメテウスの火」
プロメテウスは、水と土から人間をつくり、火を与えました。火があれば寒さもしのげるし、焼くことで肉もおいしくなります。
ある時、ゼウスは神と人間の間で食べる「肉の配分」をはっきりさせようと思い、その分け方をプロメテウスに任せました。神々の肉の取り分が減ってきたような気がしたからです。
プロメテウスは一頭の大きな雄牛を切って分け、ゼウスの知恵を欺(あざむ)こうとしました。
見た目はおいしそうだが中身は骨ばかりの肉と、まずそうだけど極上の肉にです。
ゼウスは「お前はなんと不揃(ふぞろ)いに分けたのだ」とプロメテウスを叱りました。
プロメテウスは穏やかに微笑しながら「偉大なる神ゼウスよ、お望みの品をお選びください」
策にはまり骨ばかりの方を選んでしまい (人間から火を取りあげる口実をつくるため、わかっていて騙されたという説もあります)、怒ったゼウスは人間から火を取りあげました。
しかしプロメテウスは一計を案じ、太陽神の燃える車輪からオオウイキョウの茎に火を忍ばせ、人間に再び与えたのです。
その策略に激怒したゼウスは、プロメテウスをカウカソス山に釘付けにし、ワシに肝臓をついばませる責め苦を与えるのですね。
さらに人間にも罰を与えようとゼウスは…
ネーミングが陳腐
「それまで男性しかいなかった人間社会をメチャクチャにしよう計画」を発動したのよ
使い役であるヘルメスがパンドラをプロメテウスの弟エピメテウスのもとまで連れていくと
「ゼウスの贈り物は決して受け取るな。人間がその贈り物で禍(わざわい)を蒙(こうむら)らないようゼウスに送り返せ」
兄から、そう注意されていたにもかかわらず、エピメテウスはパンドラの魅力に負けて、彼女を受けいれてしまいます。パンドラはエピメテウスの妻になったんです。
ここでもまたエピメテウス・・・バカですねー。
エピメテウスは、知恵に優れた兄とは対照的な愚か者だった、とされています。
パンドラは1つの箱(瓶)を持参していました。
神々からの贈り物が詰まっており、決して中を見てはいけないと言われていましたが、好奇心を抑えられず、ある日パンドラは蓋(ふた)を開けてしまうのです。
すると、出てきたのは病気や貧困、ウソ偽(いつわ)り、憎悪など、それまで人間とは無縁だった代物(しろもの)ばかり。
それ以前には、人類はこの地上で禍(わざわい)もなく、人間に死をもたらすような苦労や病気もなく暮らしていました。
ですがそれ以来、人間は災厄におびえながら生涯を送る定めとなったのですね。
しかし、
パンドラが慌(あわ)てて蓋を閉めたとき、1つだけ残っていたものが「希望」です。
どれだけ絶望的な状況に追い詰められても、希望をもつことだけは許されたんですね。
箱の中に、最後に希望が残ったことを、救いと受け取るか、希望しか残らなかったと否定的に受け取るかは解釈の分かれるところですね。
以上、ギリシャ神話「パンドラの箱」の深読みでした。それでは、また。
うがった見方をすると、このエピソードは男尊女卑の思想にもつながる気がしますね。
すべての人たちが差別とは無縁な平等で暮らしやすい平和な世の中になってほしいものだにゃ。
参考文献
ギリシア神話の神々 河出書房新社
ギリシアの神話——神々の時代 中公文庫
眠れなくなるほど面白いギリシャ神話 日本文芸社
鍛冶と工匠の神ヘパイストスはモノづくりでは誰にも引けを取らない腕前でした。ヘパイストスは神や英雄たちにいろいろなものをつくり与えたのです。
鎧と兜 | アキレウスに贈る |
美女 | エピメテウスの妻パンドラ |
首飾り | ハルモニアが結婚式で身につけた |
胸当て | ヘラクレスに贈る |
矢 | アポロンとアルテミスに与える |
黄金の玉座 | ヘラを縛った |
網 | アプロディテとアレスを捕らえた |
頑丈な鎖 | カウカソス山にプロメテウスを拘束 |
翼のついた馬車 | ヘリオスに贈る |
熱帯魚、装飾品 | テティスに贈る |
*1:
ソフィストは、紀元前5世紀ごろ、すなわちペルシア戦争後からペロポネソス戦争ごろにかけて、主にギリシアのアテナイを中心に活動した、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家・教育家の総称。
代表的人物にプロタゴラスがいる。
彼らの相対主義的な思考は、絶対的な真理を探究するソクラテスによって批判された。
*2:
『ギリシア神話』は誰が作ったの?
ギリシア神話は、文字が普及する前から長い間口承されてきました。
紀元前800年ごろ、詩人ホメロスがヨーロッパ最古の文学作品となる『イリアス』『オデュッセイア』を成立させました。
そして、後に続いたヘシオドスの『神統記(しんとうき)』によって、この世の始まりからゼウスが神々の支配者となるまでの筋道が整理され、現在に伝わる神話の原点ができました。
ほかにも断片しか伝わっていない様々な伝承や、後世付け加えられた物語が存在します。
また有名な逸話の中には、ローマ時代に編纂(へんさん)された『変身物語』によるものも多くあります。
大蝦蟇(がま)の伝説
ある男が比叡山に登った時、山中にひときわ、大きな岩をみつけた。岩の上によじ登り、寝転んでたばこをふかしていると突然大きな地震が起きた▼
あわてて岩から降りた。よく見ると岩ではなく、大蝦蟇(がま)だった。「日本伝説集」にある。たばこの火が背中に落ち、巨大なカエルを目覚めさせたか▼
東京新聞コラム「筆洗」より
この伝説は、いつごろ出来たんだろう・・・そう思って調べてみました。
キーワードは「たばこ」です。
たばこは、コロンブスによってアメリカ大陸からヨーロッパに広まり、その後ポルトガル人が日本へ持ち込みました。*1
たばこが日本へ伝わった正確な年代や状況は、日本およびヨーロッパともに現存する明確な記録がないため、今のところ推測の粋を出ません。
しかし、以下の2説をはじめ、さまざまな説が存在します。
天文年間説
天文12(1543)年に種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲とともに伝えたとする説
慶長年間説
慶長10(1605)年前後に、ポルトガルやスペインなどの西欧諸国=南蛮から渡来したとする説
たばこが日本に伝えられた当初、喫煙やたばこ耕作は、風紀の乱れや失火、米や麦などの耕作の妨げになるとして禁じられました。
しかし、禁令下においてもたばこは流行していったため、次第に容認され、庶民を中心に嗜好品として浸透していくことになるのです。
江戸時代の人々は、刻んだたばこをキセルで吸っていました。当初は刻みも粗いものでしたが、次第に喫味がやわらかな細刻みたばこが好まれ、定着しました。
また、たばこ盆やたばこ入れなどの喫煙具がつくられるなど、日本独自の喫煙文化が発展したそうです。
情報元
たばこJTウェブサイトより
以上のことからあの伝説は、一般の庶民に喫煙習慣が広まった「江戸時代に出来たのだろう」と推測できますね。
しみじみ・・・
そういえば去年の秋、雨上がりの杉並区の路上で大きなヒキガエル【ガマガエル】を見かけたのを思い出しました。「東京で頑張ってるね」と応援しちゃったことを覚えてます。
禁煙
最後にタバコを吸ったのが 2001年2月23日ですから、禁煙して20年になります。早いもんですね。
病は気から?
緊張感を保(たも)っていると、免疫力も高くなる。
ただし緊張がゆるむと、免疫力も低下し、病気にかかりやすくなる。
これ、私が通院している歯医者さんから聞いた話です。
あっそうかと思い当たることがありました。
以前の声優演技研究所には、アマチュア劇団で舞台に立っている方々もたくさん通ってくれていました。
そんな生徒たちが、舞台の公演が終わった途端に、かなりの確率で風邪を引いていたんですね。
「気がゆるむからだろうな・・・」とは思っていましたが、医学的にも正しかったってことですね。
緊張感の高い低いで免疫力も変化する
コロナ禍の現在、覚えておこうね。
がんになったのは免疫力が落ちたからとも考えられますね。
他人のことを言えませんね。
もしも願いが、かなうなら・・・
芸能人にボタンを押してもらえば、あたしだけの〇〇くんの誕生よ厭(あ)きたら別のアイドルにチェンジできるし、ウハウハよ。
今日も、しあわせそうでよかったね。
驚異的とは
司馬遼太郎と半藤一利
中日春秋
2021年2月13日
菜の花畠(ばたけ)に入日(いりひ)薄れ−。唱歌「朧(おぼろ)月夜」を歌う声に司馬遼太郎さんは「それ何の歌だ」と尋ねたそうだ。菜の花が大好きな司馬さんのためにと歌ったのは作家半藤一利さんである。小学校に通う代わりに図書館に入り浸ったせいで有名な唱歌を知らなかったとは、長いつきあいの半藤さんの見立てだ
▼人がコーヒーを一杯飲む間に司馬さんは三百ページほどの本を三冊読み終えていた。唱歌の話に片りんがみえる「神がかった」読書の量と力、取材や知識への熱意の人であったそうだ。「資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴(しずく)を書くのです」という言葉とともに半藤さんが書き残している
▼司馬さんが亡くなり二十五年たった。十二日は命日「菜の花忌」である。「半藤君、俺たちには相当責任がある。こんな国を残して子孫に顔向けできるか」。没する一年前に語ったという
▼憂えていたのは、ひたすら金もうけに走り、金もうけに操られるような社会だった。「足るを知る」の心が大切になると、世に語りかけようとしていた
▼憂いは過去のものになっていないだろう。災害、経済の混乱、疫病の流行…。司馬さんなら何を語るかと思うことも多い四半世紀である。憂いをともにし、後を継ぐように昭和を書いてきた半藤さんも他界した
▼著作の中に、残された滴に、声を探したくなる菜の花忌である。
カネ・カネ・カネの世の中は好きくないですぅ。
好きくないは誤用ですし、もはや死語です・・・。
それにしても、「人がコーヒーを一杯飲む間に三百ページほどの本を三冊読む」・・・驚異的ですね。さすが司馬遼太郎、神業(かみわざ)です。