かっこいいヒーローは時代とともに…
舞台でのぼくの欠点。『粋(いき)さ』がない。オドオドして小さく見える。
せりふひとつにしても、あれこれいらんことを考えすぎる。
芝居は理屈でやるもんやない。おまえらぐらいのときは、役柄を考えても仕方がない。いらんことを考えるより、ただガムシャラでやれ!
とはいうものの、やっぱりせりふの意味だとか、こんな展開は理屈に合わないだとか、そんなことにまず頭がいってしまう。
そういうかたちでしかものごとを考えられない自分が悲しい。
『大衆演劇への旅』(未来社)より
今回紹介する本はこちら
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鵜飼正樹さんの『大衆演劇への旅』(未来社)という本がある。5000円近くもする高い本だ。
題名にあるように、鵜飼さんが、市川ひと丸劇団という大衆演劇に入団し、一年二か月のあいだ、劇団員とともに旅暮らしをした記録である。
日本舞踊の名取である友人の母親から「なんかちょっと恥ずかしそうに踊っているみたい」という自分の踊りの印象を聞いたとき、鵜飼さんはこう語っている。
「恥ずかしそうに踊っているというのは、心にズキンとくる指摘だった。というのはいまだに踊りも芝居も、ぼくは、自信をもって思い切りやってみるということができないのだ。
いつもまちがえるのではないか、まちがえるのではないかという不安が先に立つのだ。
失敗しても平気でシラを切りとおすということができない。
同じようなことだが、クサイ芝居やせりふはいまだにやっぱり照れくさい。大衆演劇の醍醐味はこのクサイ芝居やせりふにこそあるのだとわかっていてもダメなのだ。
芝居の最中でも自分で自分が恥ずかしくなって、心の中でブレーキをかけてしまう。その結果、いつも中途半端な芝居しかできないのだ。
問題はもっと根深いところにあるように思う。それは、教育の問題だ。ぼくは、最高学府の、それも日本で最高といってよい大学で教育を受けてきた。(注:京都大学)そこで一貫して教え込まれてきたのは、ものごとをまず頭で、理屈で理解しようという姿勢である。
けれども、頭で理解することと、体を動かすことはまた別なのだ。むしろ、初歩の段階では『理屈抜き』のガムシャラさこそが重要なのだ。それこそがぼくに欠けている決定的なものである。」
鵜飼さんは、「あとがき」で、自分が「南条まさき」(劇団での鵜飼さんの芸名)になりきることができなかったことを反省しつつ、一年二か月の“旅”の意味を解読している。
「何者かに『なりきる』ことなどできるのだろうか?それこそ錯覚ではないのか?」
この問いは、“旅”の多様な体験から搾り出されたリアルな問いだろう。
おそらく、大衆演劇の世界で役者を生きる人々も、「なりきった」瞬間などないだろう。
そうした瞬間を味わおう、実感してみたいと思い、日々精進し、さまざまに工夫し、生きているのではないだろうか。
「なりきろうとし続ける」営みは、大衆演劇の世界に固有のものではない。私たちが普段あたりまえのように暮らしている日常という舞台こそ、こうした営みが満ちているのである。
私は普段、どのように「父親」を演じているのだろうか。大学の「教員」を演じているのだろうか。世の中を生きている人々の多くは、どのようにして、それぞれの役柄を演じているのだろうか。
私たちは、暮らしの場でさまざまな役柄を演じ続けているが、なんの疑いもなく適切に個々の役柄になりきっているわけではない。むしろ役柄と自分の存在との距離や隙間が常に気になっているのではないだろうか。
この「なりきろうとし続ける」営みこそ、そして役柄と自分の存在の間にある距離や隙間こそ、社会学が世の中を調べるうえで読み解くべき、基本的、かつ核心的な対象なのである。
なにごとにも迷わず、まっすぐつき進むヒーローこそが「かっこいい」とされた時代がありました。
だけど本当に迷わない人なんているの?
もしもそんな人が実際にいたら、逆にコワイひとなんじゃない?
失敗しても平気でシラを切りとおす人がいたとしたら、どうなのかな?
「リアルって何だろう」そう問い続けることで、アニメや映画のヒーローも、時代とともに変化してきました。
「あたりまえをうたがう」大切なことだと思います。
参考文献
「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス 光文社新書
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