キャラクター(性格)の演じ分けについて
演劇は、おもしろければいいんだと思います。
だけど何も知らないでおもしろく演じようとすればするほど、つまらなくなって、お客さんが引いてしまいます。
演技の基本をふまえて、おもしろく演じることが大切だと思いますよ。
今回は「キャラクターの性格は固定すべきかどうか」についてお話します。
チェーホフとストリンドベリ
「令嬢ジュリー」をなぜ従来の意味での性格を持たぬ人物として描いたか。
ストリンドベリはまず、従来性格と考えられていたものの不備を指摘する。
人間の精神活動は複雑である。劇作家としては、自己の人生観察、ひいては時代の良心に忠実であろうとすれば、どうしても、ある行為の動機がいかに複雑であるかを、そのままの形で表現せざるをえなくなる。
ところが観客は、たいてい、一番理解しやすい動機、己の判断をひけらかすのに一番都合のよい動機をえらぶにとどまるであろう。
そればかりでなく、社会の通念して性格と称されているものを考えてみると、持ちまえの性質を固辞する者、人生の特定の役割に適合する者、言いかえると、成長を止めた者が、往々にして性格をもった人間と見られ、
一方、発展の途上にある者、人生の潮流をのりきるのに帆づなをしっかりと固定せず、突風に遭えば針路を転じ、おさまれば方角を風上にむける者は、じつはすぐれた船乗りであり、自我をよりよく生かす道を必死になって捜し求めているにもかかわらず、無性格よばわりをされる。人間の生活を固定し単純化することが、性格をえがく所以(ゆえん)だとされているとしか思えない。
しかし、人生の複雑さは、そんなことでときほぐせるものではない。しかも現代は、知的好奇心・探求心の旺盛な時代である。
そこでストリンドベリは、登場人物のあたまのはたらきを、現実生活そのままに不規則にはたらかせた。
しかし、作者がこの点に力こぶを余り入れると、見る者に肩のこる思いをさせないともかぎらない。
そこで、モノローグやパントマイムやバレエの要素をとり入れて、気分的なゆとりがもてるように工夫する。
以上のような劇作家としての心くばりが、そのままチェーホフのものであることは明らかであろう。
ブレヒトは、ストリンドベリやチェーホフの戯曲を読むまえに、アルバイトの劇評家として、ドイツ古典劇や表現主義側の上演を見、当時の劇場経営の実態や観客の様相をさぐるかたわら、ひろく一般の社会現象を視野に収めつつ、いつしかストリンドベリやチェーホフの指示した道をあるいていたのであった。
「チェーホフとストリンドベリ」を読み解く
わかりやすく読み解いてみましょう。
「あの人って、こういうキャラだよね」と性格を固定したほうが、わかりやすい。
だけど人間ってそんなに簡単でわかりやすいのかな?
すぐれた人ほど風向きを読んで、人生の荒波を乗り越えているよね。
演劇のキャラも、性格を固定しないで演じたほうがいいんじゃない?
ストリンドベリは登場人物のあたまのはたらき、つまり性格や行動を固定しなかったしチェーホフも、そうしたよ。
ただあまりにも現実そのままだとお客さんもつまらないだろうから、バレエの要素【踊るというより、立ち居振る舞いを優雅に、きれいに、クールにみせるなどして】楽しくカッコよく演じようと言ってるんですね。
現代の演劇では、
1.「どちらにも正当性がある、世の中に答えは無数にある」という社会派の作品なのか、
2.「アンパンマン」や「水戸黄門」のように善と悪を分けて、わかりやすさを追求した作品なのかで、キャラの性格を固定するかどうかを変えているケースが目立ちますね。
演技の基本を知り、それに縛(しば)られて何もできなくなるのではなく、知っているからこそ、自由に楽しくおもしろく演じられる声優をめざそうね。
参考文献
Voice actor laboratory 声優演技研究所