ワークショップ 声優演技研究所 diary

「なんで演技のレッスンをしてるんですか?」 見学者からの質問です。 かわいい声を練習するのが声優のワークショップと思っていたのかな。実技も知識もどっちも大切!いろんなことを知って演技に役立てましょう。話のネタ・雑学にも。💛

ハンナ・アーレントと ヒトラーとナチ・ドイツ

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目次

 

イェルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告


善悪と人間の本質


たくさんのユダヤ人をガス室に送った、ナチスアイヒマンは、悪いことがしたかったのではなく「命令に従(したが)った」だけだった。

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もっというなら「上司から褒(ほ)められたかった」そして「出世したかった」から、命令に従った。

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アイヒマンは【人を殺すことがいいことか悪いことか】また【自分の出世のために無実なのに殺されてしまう人】の気持ちは考えないで、「上司の命令どおりに働けば褒めてもらえて出世する」道を選んだんですね。

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ユダヤ人の大量虐殺は、悪人ではなく「思考停止の凡人によっておこなわれた」アーレントは指摘しました。

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ハンナ・アーレントの理論を知ることで、役者として成長していきましょう。

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アイヒマン裁判

1960年、アーレントの関心は五月半ばにアルゼンチンのブエノスアイレスイスラエル諜報機関によって逮捕され、秘密裏にイェルサレムに連行された元ナチ官僚アドルフ・アイヒマンの裁判に向けられていた。

 

アイヒマンは、ナチ親衛隊のユダヤ人問題の専門家として出世し、ゲシュタポユダヤ人部門の責任者として「最終判決」(行政的大量殺戮)の実行を担っていた。ドイツやドイツが占領した地域のユダヤ人たちを強制収容所絶滅収容所に移送する指揮をとっていたのである。

 

アイヒマン終戦後潜伏・逃亡し、元親衛隊員の秘密組織やフランシスコ派の聖職者の助けを得ながら偽名の旅券で1950年にアルゼンチンに到着。二年後には妻子を呼び寄せて暮らしていた。

 

イスラエル首相ダヴィド・ベン=グリオンは、数週におよぶ取り調べの後、アイヒマンイスラエルの法廷で裁判にかけるという声明を出した。

 

1933年にドイツを出国したためナチの全体主義をじかに体験しておらず、ニュルンベルク裁判も見ることができなかったアーレントは、いま「生身のナチ」を見て考えることが過去にたいする自分の責任だと考えた。

 

「もし行かなかったら自分を許せないでしょう」とアーレントは(恩師)ヤスパースへの手紙で書いている。

 

裁判は61年4月11日に始まった。

 

12月半ばにアイヒマンの死刑判決が下され、62年6月1日アイヒマンの絞首刑は執行された。
頁181-185

 

イェルサレムアイヒマン

アイヒマン裁判について、アーレントは1962年の夏から秋にかけて本格的に執筆し、11月末には脱稿した。

 

イェルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」は、『ニューヨーカー』誌に1963年2月16日から3月16日までの毎週、5回に分けて掲載され、同年5月に本として公刊された。

 

第一回目の雑誌掲載直後から、アーレントはそれまでに経験したこともない激しい非難と攻撃を浴びた。彼女は自分にはその法廷がどのように見えたかを語ったのだが、それは許されざる見解だった。

 

イェルサレムアイヒマン」は刊行前から非難の嵐に巻き込まれ、刊行後数年たつまで攻撃の文書が絶えなかった。批判はおもに次のような点に向けられていた。

 

一つには、アーレントユダヤ評議会のナチ協力にふれた点である。
ユダヤ評議会はアイヒマンもしくは彼の部下から、各列車を満たすに必要な人数を知らされ、それに従って移送ユダヤ人のリストを作成した」と彼女は書いた。

 

もう一つには、アーレントがドイツ人の対ナチ抵抗運動、とりわけヒトラー暗殺を企てた7月20日事件*1に言及し、その勇気はユダヤ人への関心や道徳的な怒りから出たものではないと述べた点である。アーレントによれば、「彼らの反対運動を燃え上がらせたものはユダヤ人問題ではなく、ヒトラーが戦争の準備をしているという事実だった」。

 

さらには、アイヒマンを怪物的な悪の権化ではなく思考の欠如した凡庸な男と叙述した点である。

 

紋切型の文句の官僚用語をくりかえすアイヒマンの「話す能力の不足が考える能力――つまり誰か他の人の立場に立って考える能力――の不足と密接に結びついていることは明らかだった」と彼女は述べた。無志向の紋切型の文句は、現実から身を守ることに役立った。

 

こうしたアーレントの見方すべてが、アーレントは犯罪者アイヒマンの責任を軽くし、抵抗運動の価値を貶(おとし)め、ユダヤ人を共犯者に仕立て上げようとしていると断言された。

 

アーレントにたいする攻撃は、組織的なキャンペーンとなり、アーレントは実際にテクストをまったく読んでいない大量の人びとから追い詰められることになった。
頁185-187

 

ナチへの協力を指摘された元ユダヤ評議会メンバーのなかにはイスラエルの高官になっている者もいて、アーレントの著書は国家レベルの政治に巻き込まれることにもなった。

 

アイヒマン裁判の検事長ハウスナーがアメリカにやって来て、シオニスト組織の協力のもとに、アーレント批判のための各種集会や彼女の著書の非買運動がくり広げられた。シナゴーグではラビが説教壇からアーレント批判をおこなうこともあった。1940年代に彼女が数年にわたってコラムを書いていた「アウフバウ」など数々の雑誌や新聞もキャンペーンに加担した。

 

しかし、学生をはじめとしてアーレントを支持する人びとも少なくはなかった。

 

7月23日にコロンビア大学のラビであるアルバート・H・フリートレンダーがアーレントを講演者として招いた集会には、500人を超える学生がつめかけ、彼女を拍手喝采で迎えた。

 

この成功にたいしては、イスラエル政府やユダヤ人組織がアーレント攻撃を大学内部にまで持ち込むという結果がともなった。

 

それにもかかわらず、彼女がその秋から教鞭をとったシカゴ大学や、講演を依頼されたイェール大学やニューヨーク市立大学などの数々の大学で、アーレントは大勢の学生から大喝采で迎えられた。学生たちはアーレントの言葉を通じて、あらゆる国家における市民的責任の問題について、さらには1960年代のアメリカ社会や官僚や軍人の問題について考えることを学んでいった。

 

彼女を支持した人びと

「ニューヨーク知識人の内戦」(アーヴィング・ハウ)とも呼ばれた論争のなかで、ユダヤ系知識人ではごく少数の人びとがアーレントを支持した。

 

ベテルハイムは、「イェルサレムアイヒマン」公刊後すぐに書いた長文の書評論文で、アイヒマン裁判で問題となっているのは犠牲者までをも巻き込んだ全体主義体制であり、それを反ユダヤ主義の最終章としてではなく、「技術志向の大衆社会」のなかで今後も生じる恐れがある全体主義の第一章として見なさなければならない、と強調した。

 

そして、この裁判では全体主義体制下の人間が自分の魂と生命を救いうるかどうかの分岐点が明らかになっていると書いた。

 

アイヒマンは初めて絶滅収容所を訪問したとき失神しそうになったが、「自分の感情的な反応に注意を向けるかわりに」自らの義務として「割り当てられた仕事」を遂行しようとした。「これは、アイヒマンにとって戻り道のない地点であった」。そうした重大な瞬間はドイツ人だけでなくユダヤ人にもあったとベテルハイムは指摘し、次のように主張している。

 

もしわれわれが、自分の価値観に従い自分の経験に即して立ち上がらず、自分の確信や感情を犠牲にして、全体主義的制度への協力を一歩踏み出してしまうならば、協力するたびごとにさらにきつくなる網の目に捉えられてしまい、ついにはそこから自由になることができなくなってしまうのである、・・・(『生き残ること』)

 

ダニエル・ベルは「アーレントの本は正義についての本だ」とする論稿を書いた。

 

ベルはユダヤ人への犯罪ではなく「人類への犯罪」としての裁判を追求するアーレントの正義の基準が、イスラエル国家の利害と衝突したと指摘する。

 

さらに、アイヒマンおよびナチの犯罪は狂人やサディストによっておこなわれたと考える方が楽だがそれは事実ではないと述べ、「必然あるいは義務」として遂行されるとき悪は悪として感じられなくなるのだと書いた。

 

アイヒマンはナチ第三帝国の「法王」であるお偉方が「最終解決」について決定するならば「判断を下せるような人間」ではない自分には罪はないと感じた。

 

ベルは、大量殺戮である絶滅作戦を「最終解決」と呼ぶようなナチの用語法が出来事からの心理的距離と犯罪のスムーズな遂行を可能にしたというアーレントの指摘を賞賛しつつも、アーレントの要求する普遍的な正義が世界を判断する物差しとしては厳しすぎるとも書いた。

 

メアリー・マッカーシーは『パーティザン・レヴュー』に「抗議の声」というタイトルで書き、アーレントを次のように弁明した。

 

ユダヤ人指導者の協力についてはすでに知られていたことだったが、ナチの犯罪を明らかにする文脈で話題にしたことが衝撃と誤解を与えた。

 

アーレントは彼らが抵抗しなかったことを非難しているのではなく、彼女の言いたいのは抵抗と協力の間に何らかの行為の余地があったのではないかということだ。

 

アイヒマンを怪物と呼んでいたら彼の罪はもっと大きなものになっただろうか。犯罪者と犯罪のあいだの隔たりはオートメーションのような技術の発展の結果である。

 

アイヒマンヒトラーの命令を遂行することを自分の価値を証明する意義ある貢献だと見なしていた。これらの点を詳細に論じたうえで、マッカーシーは、アーレントは今後地上で「余計者」になりかねない人びとのために歴史から学ぶストーリーを語ったのだ、と書いた。
頁193ー197

 

アーレントは戦時中の体験から、「世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった」と考えていた。
頁188

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世界は何もしなかったんですか?

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はい。詳しく見てみましょう。

 

忍び寄るナチの影

1932年7月の選挙で、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は第一党となり、翌33年1月、ヒトラーが首相に就任。

 

33年の時点でドイツに住んでいたユダヤ系住民約50万人のうち、ほぼ半数が40年までに国外に出たと言われている。

 

アーレントのように33年に出国した人びとは、非ユダヤ人の亡命者たちと同様に、おもに文化的あるいは政治的な仕事や活動によってナチ・ドイツ下で個人的な危機にさらされていた知識人や活動家だった。

 

こうした早い時期の亡命者たちの当面の亡命先は、たいていフランス、ベルギー、オランダ、スイス、チェコスロヴァキアなどの近隣ヨーロッパ諸国であった。

 

受け入れ国はその当時はまだ比較的簡単に避難民を入国させたが、旅券を持たない不法滞在者である彼らには労働許可は与えられない。滞在許可がなければ働き口を得ることはできず、働き口がなければ滞在許可も得られない。パリでは大量の亡命者たちが簡易ホテルを転々としながら暮らしていた。

 

とりわけ亡命ユダヤ人は「われわれのパンを奪う」不審な外国人として、メディアや大衆による排外主義的な言動にもさらされた。
頁44ー49

 

イギリス政府は1938年にパレスティナへのユダヤ人移住を制限する方針を打ち出し(当時パレスティナはイギリスの委任統治下にあった)、大量のユダヤ人難民を乗せた船が沈没するという事件が各地で起きていた。

彼らに、安全のためにさしあたって自国での下船を認める国はほとんどなかった。アメリカ合衆国議会でも、ユダヤ人難民の受け入れ法案が次々と否決されていた。
頁86


大量殺戮が始まる以前の1938年の「水晶の夜」*2にたいする各国の言論上の非難は、難民の入国制限を進めるという行政的措置と矛盾していた。「ナチが法の外へと追放した人びとはあらゆる場所で非合法となった」のである。

 

アーレントはナチの先例のない犯罪を軽視しているわけではけっしてないが、ナチを断罪してすむ問題でもないと考えていた。また、加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレント全体主義の決定的な特徴ととらえていた。

 

アイヒマンの無思考性と悪の凡庸さという問題は、この裁判によってアーレントがはじめて痛感した問題であった。アーレントは裁判以後にこの問題をあらためて追究することになる。
頁188

 

アーレントは、(1935年から38年までの間の時期)フランスの富豪ユダヤ人であるロトシルト(ロスチャイルド)男爵夫人の慈善事業を補佐する個人的秘書として雇われ、パリのユダヤ人上流階級の世界を垣間見たことがあった。

 

彼らが中心となっていた「長老会議」は、フランスのユダヤ人社会をとりしきり、フランス政府からユダヤ人対策についての意見を求められることもあった。また慈善団体をいくつももっていたが、慈善事業として資金援助はしても政治的に行動することを忌避し、反ユダヤ主義から避難してきたユダヤ人たちを同胞としては見なさなかった。

 

彼らは、早い時期の知識人亡命者たちのことも「博士様、たかり屋様」と呼び、嫌悪感を隠さなかったが、激増するユダヤ人難民にたいしては、自分たちが同化してきた社会の反ユダヤ主義を高めるとして、厄介払いするような雰囲気もあったのである。
頁54

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これってつまり・・・

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反ユダヤ主義、つまりこの当時はユダヤ人がきらわれていたけど、自分たちフランスの富豪(お金持ち)ユダヤ人は見逃してもらっていた。

でもユダヤ人難民が入ってきたら、反ユダヤ主義が高まって、今は許されている自分たちもどうなるかわからない。だから同じユダヤ人でも彼ら(ユダヤ人難民)は邪魔だよね、という意味です。

 

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「世界は何もしなかった」それはこちらの書籍にも綴られていました。

ヒトラーとナチ・ドイツ」 講談社現代新書より

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ユダヤ人の国外移住はなかなか進展しなかった。

 

1933年にドイツ全人口の0.76パーセント、約50万3千人を数えた国内のユダヤ人のうち、37年までにドイツを去った者は12万~13万人に過ぎない。

留まるべきか、出国すべきかの苦しい選択を前に、大半のユダヤ人は決断を先送りにした。

 

それはなぜだろうか。

 

アーリア人*3の妻を頼りにドイツに留まり、かろうじて死を免れた著名な仏文学・言語学者のヴィクトーア・クレンペラー(1881-1960)は、近年発見され公刊された日記『私は証言する』のなかで、出国に二の足を踏むドイツ・ユダヤ人の胸中を綴っている。

 

その日記からいくつかの理由を挙げてみよう。

 

1.ユダヤ人迫害は長続きしないだろうとの楽観的予測(ユダヤ人の長い受難史との比較、ナチ体制への過小評価、国際世論への過度の期待)。

2.逼迫(ひっぱく)した経済事情(反ユダヤ立法で失職し、収入源を絶たれた。国外移住に課される法外な出国税。その税額は移住者の登録資産の25パーセントにものぼった)。

3.ドイツ人としての強い自覚、ドイツへの愛国心(クレンペラーの場合、第一次世界大戦の従軍経験もあった)。

4.移住先での就業・生活設計の不安。

5.外国の受け入れ制限。

クレンペラーがいうように、ユダヤ人の国外移住の成否は、受け入れ国側の対応にも左右された。

 

では、この問題に、諸外国はいったいどのように対応したのだろうか。


諸外国の対応

まず米国だが、ドイツで進むユダヤ人排斥の動きはメディアを通じて広く知られており、ユダヤ人難民問題への関心はかなり高かった。

38年3月のオーストリア併合をきっかけにドイツの反ユダヤ主義がいっそう激化し、米国への移住を希望するユダヤ人が急増すると、大統領フランクリン・ローズヴェルトユダヤ人難民問題を討議する国際会議の開催を提案した。これが同年7月に行われた有名なエヴィアン会議の発端だ。

在米ユダヤ人団体はこれを歓迎したが、米国社会には経済的理由から難民の受け入れを拒む反対論も根強かった。

結局、大統領がこの問題で主導権を発揮することはなかった。6月末に会議のための予備会談がパリで開かれたが、米国の方針はすでに決まっていた。自国の移民受け入れ枠を増やさないこと、受け入れ費用は当事者または民間資金から調達すること、問題解決はドイツとの交渉を前提とすること、である。

イギリスも積極的ではなく、自国が深く関わるパレスティナへのユダヤ人の移住問題を議題から外すことに成功した。フランスも、国内の経済情勢を理由に受け入れはできないとの意向を示した。結局、本会議参加国は、ユダヤ人の受け入れに関していっさいの強制を受けないとする点で一致した。

 

38年7月、フランスのエヴィアンで開催された本会議には、32ヵ国の代表が集まったが、消極的な意見が相次いだ。

 

米国の代表は従来の移民枠の堅持を表明し、カナダは一人の受け入れもできないとの姿勢を示し、オーストラリアは「我が国に人種問題はなく、難民を受け入れることで問題を輸入することはできない」と述べた。

スイスはさらに露骨だった。この会議を国際連盟本部のあるジュネーブで開催することを拒んだうえに、会議と並行してヒトラー政府との交渉を続けていたドイツからの不法入国を阻止するため、ドイツのユダヤ人のパスポートにユダヤ人であることを示す「J」のスタンプを押すよう要請していたのだ。これは受け入れられ、実現した。

 

結局、エヴィアン会議は開催されただけで、実質的に成果をあげることなく閉会した。

 

ヒトラーは会議に先立ち、ユダヤ人に同情して受け入れる国があるなら、「豪華客船に乗せてでもお送りしよう」と述べていたが、ユダヤ人はどこの国でも厄介者扱いされていることを確信したに違いない。

 

エヴィアン会議の惨憺(さんたん)たる結果は、ヒトラーの反ユダヤ政策に影響を及ぼすことになった。

 

エヴィアン会議が開かれた1938年は、ユダヤ人政策が急進化する年となった。

 11月、全国各地のユダヤ人の商店・企業・事務所・学校などがいっせいに襲撃され、放火され、破壊された。ユダヤ人は住まいから外に引きずり出され、辱めを受けた。


あちこちでユダヤ人に襲いかかるナチの若者たちと、それを制止することなく遠巻きに見て見ぬふりする傍観者。燃えさかる(ユダヤ)教会堂を前に呆然自失のユダヤ人。消防活動は禁じられ、中世から連綿と続いたドイツ・ユダヤの貴重な財産がすべて灰燼(かいじん)に帰した。


ドイツにユダヤ人の居場所がないことは、これで明らかになった。


路上に散らばったガラスの破片のきらめきからこの事件は、「帝国水晶の夜」とも呼ばれた。数百人のユダヤ人(当局の発表では91名が殺害された)が殺されるか、自ら死を選んだ。

 

約3万人のユダヤ人男性がミュンヘン近郊のダッハウやベルリン郊外のザクセンハウゼンなど国内の強制収容所に連行され、財産の放棄と即時出国に同意するよう強制された。


ヒトラー政府の反ユダヤ政策はこの事件の後、さらにエスカレートした。


「ドイツ経済からユダヤ人を排除する」政令を布告。

これによって、ユダヤ人のあらゆる経済活動は禁じられ、ユダヤ人の所有する企業はすべて没収=「アーリア化」された。ドイツのユダヤ人はすべての経済基盤を失った。

 

ユダヤ人の国外移住は、引き続き強引に進められていった。

 

ヒトラー政府は、移住できない者に対しては労働動員を強いるなどさらに搾取を行う一方で、彼らの貧困化が社会の危険要因となることを防ぐため、当面の生存のための最低限の手当てを施した。


都市部には「ユダヤ人の家」と称する粗末で狭い居住施設が設けられ、そこへ押し込められたユダヤ人は数年後の「ポーランド送り」までの時間を過ごした。

 

ポーランド送り」は「疎開」とも呼ばれたが、実際には東方へ送られ、目的地ですぐ殺されるか、しばらく移送先の収容所で働かされて絶命するかを意味した。
頁282-289

参考文献
ヒトラーとナチ・ドイツ 講談社現代新書

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ハンナ・アーレント 中公新書にもどります。

ハンナ・アーレント

ユダヤ人としての実務的な仕事に取り組みながらも、アーレントは自分の眼前でくり広げられる出来事を理解しようとする。この時期もまた、彼女がドイツからたずさえてきたラーエル・ファルンハーゲンの研究の仕上げや他の研究・執筆活動(彼女は理解するために書く)、そして彼女の思考様式に影響を与えていく。
頁54


全体主義の起源

(アーレントの著作「全体主義の起源」)第二部帝国主義では、南アフリカ帝国主義政策を推進したイギリスの政治家セシル・ローズの「できることなら私は星々を併合しようものを」という言葉に見られるような、ヨーロッパの富の無限の膨張のプロセスとその政治的意味が描き出される。

 

帝国主義は人種主義を政治的武器とし、人類を支配人種と奴隷人種に分ける。アーレントによれば、余剰になった富とともに、失業してヨーロッパで余計な存在になった人間が植民地へと輸出され、彼らは自分たちを支配的白人種として見なすという狂信に陥った。

 

余計者として国外へと出た人間がそこで出会った人びとをさらに余計者と見なすという構図が生じたのである。

 

また、帝国主義時代の官僚制支配では、政治や法律や公的決定による統治ではなく、植民地行政や次々と出される法令や役所の匿名による支配が圧倒的になっていった。アーレントは官僚制という「誰でもない者」による支配が個人の判断と責任に与えた影響を検証した。
頁109―110

 

全体主義
全体的支配は人間の人格の徹底的破壊を実現する。

自分がおこなったことと自分の身に降りかかることとの間には何も関係がない。

すべての行為は無意味になる。

強制収容所に送られた人間は、家族・友人と引き離され、職業を奪われ、市民権を奪われた。自分がおこなったことと身に起こることの間には何の関連性もない。発言する権利も行為の能力も奪われる。

行為はいっさい無意味になる。

アーレントはこうした事態を法的人格の抹殺と呼んだ。
頁113

 

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さらにアーレントは、「服従」と「支持」の違いにも言及します。 

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服従した」と「支持した」

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服従」という言葉からは、イヤだったけど仕方なかったというイメージが浮かびます。

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「支持」は、賛同し、自分から進んで、前向きに協力し応援したというイメージになりますね。

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この本だけでなく「ゾフィー21歳ヒトラーに抗した白いバラ」にも、ナチスを支持し、自分から進んでヒトラーに協力したドイツ人たちは大勢でてきました。

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なぜヒトラーを支持してしまったのか?

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イヤイヤではなく、なぜ喜んでヒトラーに協力し応援してしまったのか?

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そういったことに気がつくことで、いろんなものが見えてきますよ。*4


なぜドイツ国民はナチスを支持したのか

共犯者となった国民

国民が抗議の声をあげなかった理由に関連して、ナチ時代特有の「受益の構造」にふれておこう。それはいったいどんなものだったのだろうか。

 

ヒトラー政権下の国民は、あからさまな反ユダヤ主義者でなくても、あるいはユダヤ人に特別な感情を抱いていなくても、ほとんどの場合、日常生活でユダヤ人迫害、とくにユダヤ人財産の「アーリア化」から何らかの実利を得ていた。

 

たとえば同僚のユダヤ人がいなくなった職場で出世をした役人、

近所のユダヤ人が残した立派な家に住むことになった家族、

ユダヤ人の家財道具や装飾品、楽器などを競売で安く手に入れた主婦、

ユダヤ人が経営するライバル企業を安値で買い取って自分の会社を大きくした事業主、

ユダヤ教ゲマインデ(信仰共同体)の動産・不動産を「アーリア化」と称して強奪した自治体の住民たち。

 

無数の庶民が大小の利益を得た。

 

あるいはこんな例もある。
ヒトラーは30年代の半ば、ベルリン、ハンブルクミュンヒェンなど大都市で大掛かりな都市改造を指示した。そこでは多くの市民が立ち退きを迫られたが、その代替住居として、ユダヤ人の住居が指定されることがよくあった。

 

市の行政当局は、ユダヤ人がいずれ移住を強いられることを見込んで都市計画を策定していた。

 

立ち退きを強いられた市民は、まだ居住中のユダヤ人の住居を遠巻きに見て希望する「新居」を決めていたという。公民権を失ったユダヤ人の身の上に生じたいっさいの不都合を市の行政当局は意に介さなかったし、隣人もほとんどの場合、見て見ぬふりをした。


ユダヤ人財産の没収と競売、所有権の移転は、細部にいたるまで反ユダヤ法の規定に従って粛々と行われ、これに携わった国税庁・市役所などさまざまな部署の役人も良心の呵責(かしゃく)を感じることなく仕事を全うできるシステムができあがっていたのだ。

 

ユダヤ人の排斥を支える国民的合意が形成されていたとはいえないにせよ、ユダヤ人の排斥を阻む民意は見られなかった。

頁291-292

ヒトラーとナチ・ドイツ 講談社現代新書

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以上です。アイヒマンは極悪人ではなく家族を大切にするごく普通の小心者だった。誰もが同じ状況になれば同じことをする可能性がある」

演技力の向上と役づくりのヒントに、ぜひお役立てください。

参考文献

ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 中公新書

ヒトラーとナチ・ドイツ 講談社現代新書

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Voice actor laboratory 声優演技研究所

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*1:7月20日事件は、1944年7月20日に発生したドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチ党政権に対するクーデター未遂事件。

1944年6月、英米軍は西部でノルマンディーに上陸し、東部でもソ連軍の攻勢によりドイツの敗色は濃くなった。

ナチ党の政策への反対や、第二次世界大戦における連合国との和平を目的としてドイツ国防軍の反ナチス将校グループが計画・実行したヒトラーの暗殺とクーデターは共に失敗し、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕、処刑された。

*2:38年11月ドイツ全土でユダヤ人襲撃が展開された。

*3:ここでいうアーリア人種とは、当時のヨーロッパでいわれていた人種の分類概念「コーカソイド」、つまり白人種のひとつで、アーリア人種は白人種の最上位にあると考えられていた。

20世紀初頭のドイツで広く読まれ、ヒトラーの思想形式にも影響を及ぼしたといわれる『19世紀の基礎』の著者、イギリスの文筆家で、ヴァーグナーの娘婿でもあったスチュアート・チェンバレンは、ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族だとした。

こうしてアーリア人種はドイツ民族と同義語となった。

*4:

「独裁体制のもとでの個人の責任」のなかで、アーレントは「公的な生活に参加し、命令に服従した」アイヒマンのような人びとに提起すべき問いは、「なぜ服従したのか」ではなく「なぜ支持したのか」という問いであると述べた。

 

彼女によれば、一人前の大人が公的生活のなかで命令に「服従」するということは、組織や権威や法律を「支持」することである。「人間という地位に固有の尊厳と名誉」を取り戻すためには、この言葉の違いを考えなければならない。

 

アーレントは、ナチ政権下で公的な問題を処理していた役人は「歯車」であったかもしれないが法廷で裁かれるのは一人の人間である、と強調し、全体主義の犯罪性の特徴について論じている。

 

全体主義化では公的な地位についていた人びとは体制の行為に何らかのかたちで関わらざるをえなかった。そうした人びとが「職務を離れなかったのはさらに悪い事態が起こることを防ぐためだった」と弁解する。

 

仕事を続けたほうが「責任を引き受けている」のであり、「公的な生活から身をひいた人は安易で無責任な形で逃げ出したのだ」という主張である。

 

それにたいしてアーレントは、「世界に対する責任」「政治的な責任」を負えなくなる「極端な状況」が生じうると述べ、次のように続けた。

 

政治的な責任というものは、つねにある最低限の政治的な権力を前提とするものだからです。そして自分が無能力であること、あらゆる力を奪われていることは、公的な事柄に関与しないことの言い訳としては妥当なものだと思うのです。(『責任と判断』)

 

アーレントは別の論稿では「何もしないという可能性」、「不参加という可能性」という言葉を使っている。

 

彼女は、こうした力のなさを認識するためには現実と直面するための「善き意思と善き信念」を必要とすると指摘し、絶望的な状況においては「自分の無能力を認めること」が強さと力を残すのだ、と語った。

 

独裁体制下で公的参加を拒んだ人びとは、そうした体制を支持することを拒み、不参加・非協力を選んだのである。そしてこうした「無能力」を選ぶことができたのは、自己との対話である思考の能力を保持しえた人たちだけだった。
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