時をかける少女とオンディーヌ
今回のブログは「時をかける少女」と「オンディーヌ」のネタバレ注意。両作品のラストシーンに言及しているよ。
時をかける少女
和子はいつも、学校の行き帰りに、小ぎれいな西洋風の家の前を通る。
その家には、善良そうな中年の夫婦が住んでいて、庭には温室があり、その横を通るとき、かすかに甘い、ラベンダーの花のかおりが、ほのかににおってきて、ほんのしばらく、和子をうっとりと夢ごこちにさせるのである。
――ああ、このかおり。このにおいをわたしは、ぼんやりと記憶している・・・。和子はそう思う。――なんだったかしら?このかおりをわたしは知っている。甘く、なつかしいかおり・・・。いつか、どこかで、わたしはこのにおいを・・・。
その家の門柱には、「深町」と書かれている。だが和子は、その文字を見ても、何も思い出せないし、何も思いあたらないのである。
ただ、ラベンダーのにおいが、やわらかく和子のからだをとりまく時、かの女はいつもこう思うのだ。
――いつか、だれかすばらしい人物が、わたしの前にあらわれるような気がする。その人は、わたしを知っている。そしてわたしも、その人を知っているのだ・・・。
どんな人なのか、いつあらわれるのか、それは知らない。でも、きっと会えるのだ。そのすばらしい人に・・・いつか・・・どこかで・・・。
筒井康隆先生原作「時をかける少女」の有名なラストシーンです。
本日は「オンディーヌ」第三幕、第六場と第七場(ラストシーン)のレッスンを行ったんですが・・・
特にオンディーヌの長ぜりふ (光文社古典文庫版だと頁218からのセリフ) は、この「時をかける少女」をイメージして演じてごらん、とアドバイスしました。
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オンディーヌの長ぜりふ解釈
なんでわたしは水の精なのに人間みたいにふるまうの?
なんで水の中に人間の道具があるんだろう…なんでわたしは人間のイスにすわるんだろう…なんで水の中なのにランプに灯をともすんだろう…。
なんにも思い出せない…。
だけど、こうしていると、わたしはとても幸せな気持ちになれるの、なにか、とても愛(いと)おしいものにつつまれているように感じるの…。
なぜだかわからないけど、そうしているときが、わたしにとって一番のしあわせなの…。
「たとえ水の世界の掟(おきて)どおりに、あなたと暮らした素晴らしい思い出をすべて消されてしまっても、わたしはあなたを決して忘れないよ、忘れたりなんかしないよ」とオンディーヌは言っているんですね。
だけど、掟の力は強力です。契約どおりに愛するハンスは死んでしまい、オンディーヌはハンスと愛し合った日々の思い出すべてを忘れてしまうんです・・・。
だけど、すごいのはここから。
ハンスのなきがらを見たオンディーヌは…
オンディーヌ「この若いひと、きれい。この台の上のひと。これ誰?」
水の精の王「ハンス」
オンディーヌ「すてきな名前。なんで動かないの?」
水の精の王「死んだからだ」
オンディーヌ「このひと好き。生き返らせるってできない?」
水の精の王「できない」
オンディーヌ「すごい残念。ぜったい好きになったんだけど!」
よくありますね。交通事故とかで記憶喪失になっちゃって、彼氏が恋人の彼女の病室にかけつけると、「あなたはだれ?恋人なんてウソ!ぜんぜん思い出せない・・・」みたいな物語が。
だけどオンディーヌは、それとはまったく正反対。
たとえ記憶をなくしても、愛する人は決して変わらない
そういうお話です。
いいレッスンが出来ました。それでは、また来週。
参考文献
オンディーヌ 光文社古典新訳文庫