ダルトン・トランボ
昨年のブログ「弁証法その2」や「Zガンダムとアインシュタインの生涯」の続きだよ。
ダルトン・トランボは、反戦映画の傑作「ジョニーは戦場へ行った」を執筆した小説家であり映画の脚本家です。
独裁者に勝ったものが独裁者に
1950年代のアメリカには「マッカーシズム (赤狩り)」の嵐が吹き荒れました。
ナチスは人種による弾圧を行いましたが、アメリカは思想の弾圧を行ったんですね。*1
「独裁者に勝ったものが、新たな独裁者となった*2」瞬間です。
そのため、反戦映画「殺人狂時代」を作ったチャールズ・チャップリンなど数多くの映画人たちが弾圧され、ハリウッドから追放されました。
ダルトン・トランボも、その一人です。
しかしダルトン・トランボは「偽名」で脚本を書き続け、仲間たちも協力します。
そのなかの一本が、オードリー・ヘプバーンを大スターにした映画「ローマの休日」です。
ローマの休日
ご存知の通り、ローマはイタリアの首都です。「ローマの休日」は1953年に制作された作品で、第二次大戦が終結してから8年しか経っていません。
イタリアは第二次世界大戦で、ナチス・ドイツのヒトラーや日本と日独伊三国同盟を結んで連合国と戦って敗れた国です。
戦争中、連合国の爆撃に遭い、死を覚悟した家族がマリア様に祈ったところ、奇跡的に助かった「祈りの壁」のエピソードが、劇中でアン王女に説明されます。
そのときアン王女は「自分の使命は、戦争で悲しい思いをする人を二度と出さないことだった」と思い出すんです。
そのため自分は「平和大使として各国を周っていたんだ」と。
映画評論家の町山智浩氏によると
アン王女は、公務に嫌気がさしていた。
新聞記者とも、お互いにはっきりとわかる相思相愛となっていた。
にもかかわらず、なぜアン王女は愛する人との幸せを選ばずに、飽き飽きしていた公務に戻ったのか。
それは「平和大使」という、自分がおかれている立場の重要性に気がついたからだ。
この解釈に全面的に賛成します。
因(ちな)みに日本の「ゴジラ」<1954年>にも、ゴジラによって火の海になった東京の街角で「(戦争で死んだ)お父ちゃんのそばに行くんだよ」と子どもに語る母親の場面がありますね。
【まとめ】
平和だからこそ、世界中に映画やアニメが公開されて経済が回るんだと思います。
カネ・カネ・カネという発想はあまり好きにはなれませんが、たくさんの国と仲良くして、アニメや映画を公開してくれる国が増えれば増えるほど、お金になるし、みんなも幸せになると思いますよ。