シェイクスピアは時代とともに進化した
シェイクスピア演劇の歴史とDNA
DNA は正確にコピーされ、世代を超えて受け継がれる性質があります。
しかし、これではいつまでたっても生物の性質は変化せず、多様な生物は進化しないことになってしまいます。
実は、DNA のコピーではミスが起こることがあるんです。これが生物の進化のきっかけとなっているんです。
間違うことが進化につながる
生物は生命が地上に生まれて以来進化を続け、現在の多様な種の形成に至った、と考えられています。
生物が進化を続けるには遺伝子が常に変わる事が必要です。進化は「遺伝子のデタラメな変異」と、その時の環境に適した「生物の選択淘汰」によるとされています。
さて、シェイクスピア演劇です。
小津次郎氏の著書「遺書を書くシェイクスピア」(岩波書店)に興味深い記述がありました。
シェイクスピアは大変な読書家でした。その豊富な読書で培(つちか)われた知識が、シェイクスピアの戯曲にも多大な影響を及ぼしたと考えられます。
しかしシェイクスピアの読んだ本は、当然のことながら現代よりも【誤字・脱字】が多かったのです。
ところが、それが逆に幸(さいわ)いしたのではないか、というのです。
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彼が実際に読んだにちがいないそれらの書物の大部分は、その後の本文研究、関連学問の研究結果、さらに近代書誌学の発達によって、今では信頼すべき校訂版が刊行されている。
十分な語学力さえあれば、まことに皮肉なことながら、シェイクスピア以上に正確に原典を読むことができるはずである。
しかし、いささか語弊の伴う表現ではあるが、誤解を禁じられ、解釈の幅を狭められた標準版の価値を認めたうえで、
シェイクスピア自身が読んだ、もっとずさんで、もっと荒っぽく、活字の一部が磨滅し、行の乱れた古版本を読むことによって、
シェイクスピアが犯したかもしれない誤解をくりかえし、
足許にも及ばぬとはいえ、シェイクスピアが伸ばした想像の翼を、それなりに垣間見た感慨にひたることも、シェイクスピア研究の一助となるかもしれない。
また、このようにも語っています。
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英国のBBCが六年がかりで制作中のシェイクスピア全作品のテレビを十本余り、NHKの試写室で見せてもらったが、おかげで日本で最初の放映『ロミオとジュリエット』の解説役として引っぱり出されることになった。
頭を抱えるような難問は出なかったが、このテレビ全体を通じての傾向をひと口にいうとどういうことになるか、というさりげない質問には、正直にいって返答に窮したのである。
なにしろBBCテレビでは演出者は作品ごとに違っているし、テレビも芝居である以上、主演俳優の持ち味によって舞台全体の雰囲気が左右され、場合によっては演出家の意図とは別の方向に歩きだしてしまう、そういう一種の自立性を持っている。
それにしても、正統的演出とはいったい何であろうか、果たしてシェイクスピアの演出に正統と呼ばれるものがあるのだろうか、もしあったとして、それは守るに値するべきものであるだろうか。
一般的にいって、シェイクスピア劇の過去の上演をかなり正確に知り得るのは、たぶん1920年代までではないかと思う。
それ以前の時代となると、およその芸風は察知し得ても、演出という作品全体の解釈に深くかかわった構図で復元することはほとんど不可能ではないかと思われる。
19世紀以前の演出については確信をもって語ることができない。
まず演出者というものが存在しない。
舞台創造の責任者でありながら、原理的には舞台の外に立つ演出者はこの時代にはまだ生まれていなかった。もちろん舞台を作るためには指揮者の存在は不可欠であるが、それは現在の演出者とは大いに異なるものであったにちがいない。
さらに致命的だったのは舞台の広さに対する照明の貧困であった。ひと口に言うならば、微妙な科白(せりふ)のニュアンスや細かい表情は観客には伝わらなかったのである。
当然の結果として演技は大まかで、誇張されたものにならざるをえない。そうした条件のもとで、劇場の権力者である主演級のスター俳優がどのような演技を見せたか、およその見当がつくはずである。
18世紀から19世紀にかけての英国では、商業演劇が形成され、その頂点をきわめていた。
商業演劇のスター俳優をことさらに蔑視するつもりはない。およそ俳優を志すほどの者ならば、少なくとも潜在的には自己顕示欲を持っていると思うのだが、十八、九世紀の舞台に君臨したスター俳優は、ほとんど独裁者としての地位を享受していたが故に、おそらくは作品の解釈は二の次として、低次元の自己主張を第一と考え、自己の扮する役柄を美化したにちがいない。
もしこの推測が当っているとするならば、正統性を作者の意図と関係づけて考える限り、シェイクスピア演出の正統性を論ずることは不可能になってくる。
さらにまた、17世紀末から19世紀初頭にかけては、シェイクスピア上演は原作よりも後人による翻案改作が主流を占めていたことを想起するならば、そもそもシェイクスピア解釈の正統性云々を論ずることが、少なくとも上演に関する限り、ほとんど無意味となってくるのである。
シェイクスピアは時代とともに進化した
シェイクスピア演劇は素晴らしいです。しかしそれはミスをしなかったからではなく、故意や偶然など、たくさんの誤りの歴史もふくんでのことなのです。演出家だって独自の新解釈をしてみたいだろうし…。
正しい方向をめざすのは当たり前です。わたしもそうしています。否定はしません。
ただし、極めてまれな現象なのかもしれませんが、間違うことが結果的に劇的な進歩につながることもあると思います。
演劇は時代とともに変化し進化してきました。それをあてはめてみると、実はシェイクスピアも同じで「シェイクスピアも時代とともに進化した」とも考えられると思います。
大切なのは「きのうの自分より前に進む」こと失敗にめげず成長をめざしましょうチャレンジ精神を忘れずに
こんな話を交えながら、本日もボイスドラマの作成やらシェイクスピア風・戯曲のレッスンをおこないました。それでは、また来週