ソクラテスの弁証法
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哲学の入門書を読んでいたら、こんな文章が目にとまりました。
「音程が悪いから、まず音程をしっかりとして基礎をかためなければいけない」
大きなお世話だ、そんなことは百も承知だといいたいが、ぐっとこらえて、
「そうですね。そのあたりが、うちの(音楽)サークルの泣きどころで課題なんですよ」とか、答えておく。
こういう聴き方をされれば、われわれのやっていることはほとんど無意味であり、無価値である。
しかし、私にいわせれば、こういう人は音楽そのものを理解していないし、音楽の楽しみ方を知らない人だ。
音程が悪いと酷評した人が、間違っているわけではない。そのとおりなのだ。しかし、そこにすべての評価の基準を持っていくのは、やはり問題である。
これは、悪しき100パーセント主義にほかならない。音程が悪ければもう、すべてがダメという減点主義の思想である。
これは、じつは自分へのこだわりがなせる業(わざ)なのだ。
つまり、自分の劣等感の裏返しなのである。
他人を低めれば、自分が上になるというわけだ。しかしそれでは何も楽しめなくなってしまう。
「好きこそものの上手なれ」
うまくなるには、まず楽しむこと。わたしもそう思います。
ソクラテスの【弁証法】
真相を見極め不整合を明らかにするために、さまざまな信念に隠されているものを暴き、そうした信念に疑問を投げかけるという方法が、ソクラテスの「弁証法」です。
1.「なぜ?」「どうして?」と深掘りして真相を見つけ出す哲学問答。
2.その過程であぶり出された、「だとしたら、これって間違ってるんじゃないの?」という、あたりまえをうたがう哲学。
3.「そんなの、あたりまえだよ」と、うたがいもしなかったことが、実はまちがっていた・・・。
昭和の声優養成所ではあたりまえだった、「荷物をまとめて故郷(くに)へ帰れ」という方式では楽しさは生まれませんね。
昨年11月2日のブログにも書きましたように、「生徒を叱咤することで、やる気が生まれる」という考えかたは幻想にすぎないと、わたしは思います。
「教える」と「叱る」を分けて考えよう
そしてワークショップの目的は「生徒を育てること」です。生徒を成長させるために、わたしたちのワークショップはあります。
生徒を貶(おとし)め、やる気をなくさせるためではありません。
「教える」と「叱(しか)る」は分けて考える必要があると思います。楽しく学んで成長しよう。
参考文献
哲学思想の50人 青土社
人間関係がこじれかけたとき読む哲学の本 講談社