サイクル・アウト!
昨日のメジャーリーグ関連のブログにちなんで、もうひとつ。
吾輩は、ヤンキース「背番号14」のユニフォームを所持しておる。ルー・ピネラが背負っていた番号じゃ。
野球には「サイクル・ヒット」なるものがある。単打・二塁打・三塁打・本塁打を一試合中に達成するという離れ技じゃ。
それとは真逆の「サイクル・アウト」という偉業を達成した傑物こそ、ピネラなのじゃ。
ルー・ピネラの野球カード
大リーグ史上最低のランナーはルー・ピネラである。
このことにはほとんど疑問の余地がない。そのくらい彼の場合は、打力と鈍足と判断の悪さがうまくマッチして、折り紙つきのワースト・ランナーとしての地位を確固たるものにしていた。
ルー・ピネラは、サイクル・アウトという大リーグ史上に比類なき大記録も残している。
すなわち彼は、一試合のうちに、全部の塁でアウトになるという偉業を成し遂げたのである。
その試合は、すべり出しはいつもと変わらないごく普通の試合だった。
第一打席、彼はレフト戦いっぱいにライナーのヒットを放つ。普通なら二塁打コースである。
だがボールが外野を転々とするのを見て、彼は二塁ベースを駆け抜ける。そして三塁にたどりついたところで彼の息はすでに完全に上がっていた。
が、彼は躊躇(ちゅうちょ)することなく三塁ベースをまわってホームに突入したのである。
どう控え目に見ても、彼がホームに着いたのはボールより一時間は遅かったといわなければならない。彼の到着を待つあいだに、キャッチャーはすでに髭をたくわえはじめてさえいたのである。
それに続く二打席目は二塁に平凡なゴロを転がして一塁でアウト。ここまでならまだとくに珍しい記録とは言いがたい。
ところが、六回、ライトにシングル・ヒットを放った彼は、二塁を欲張ってそこでアウトになってしまうのである。
とはいえ、これだってけっして悪い賭けだとはいえなかった。タイミング的には、あとほんの少しだけ足が速ければ、セーフになってもおかしくはないタイミングだったのである。
九回に彼が打席に入ったときには、すでに球場全体が記録達成の可能性があることに気がついていた。
観衆は席に座ったまま彼に大歓声を送っていた。
が、彼が不朽の名声を達成するためにはまだ三塁ベースが足りない。しかも三塁でアウトになるのは、おそらくアウトのなかでももっともむずかしいアウトである。
だがルー・ピネラは見事にそれをやってのけたのだ。
彼はライト線上にスライスして飛んでいくライナーを放つと、一塁ベースをまわって、一目散に二塁へ向かった。
ここでライトがボールをつかんだ。
だがピネラは両脚をフル回転させて迷うことなく二塁ベースを蹴ったのである。
観客は総立ちで大歓声を上げた。
味方の選手たちもダグアウトの屋根に登って、行け、行け、の大声援を送っている。
そこへライトの選手がスリーバウンドの素晴らしいボールを返球してきたのである。
ルーに勝ち目はなかった。
たとえクロスプレーになったとしても、多少とも歴史感覚のある審判なら、彼を容赦するはずもない。が、じっさいには、彼は人の助けなどまったくといっていいほど必要としなかった。
彼は自分ひとりの力で立派にアウトになったのである。
もちろんファンはダグアウトに引き上げる彼を総立ちの大歓声で見送った。
にもかかわらず、みずからの闘争本能に忠実なピネラは逆上したのである。おそらく彼は何年たっても、あれは四つとも審判のミス・ジャッジだったのだ、と言いつづけているにちがいない。*1
ルー・ピネラは、ウケをねらったんじゃなくて本気だったんですね。
そのとおり。素晴らしい、なんと素晴らしいエピソードじゃろう。吾輩がルー・ピネラのユニフォームをなにがなんでも所持したいと願った理由もわかっていただけたかと思う。*2
・・・変わってますね。
ルー・ピネラは2004年にタンパベイ・デビルレイズの監督として日本での開幕戦を行っています。対戦相手はニューヨーク・ヤンキースで、松井秀喜の日本凱旋試合でした。
選手としては、1977年と78年のニューヨーク・ヤンキースのワールドシリーズ連覇に貢献し、監督としては、1990年にシンシナティ・レッズをワールドチャンピオンに導いています。
名選手にして名監督。だけど・・・という愛すべき人物が、ルー・ピネラなんですね。
参考文献
アンパイアの逆襲―大リーグ審判奮戦記 文春文庫