8月と戦争と読解力UPのヒント
8月は「戦争について語る月…」というイメージが私にはあります。
小説やエッセイから心に残った言葉たちを紹介させていただきます。
アメリカひじき 野坂昭如
羽田からの高速道路をつっぱしりながら、幾度となく「どうです、日本はかわったでしょう」誇りたく思ったが、ヒギンズはだまったまま
「ヒギンズさん、お酒は飲むんですか?」「ハイ」いかにもうれしそうにうなずき、ふりむいた俊夫に、葉巻をさし出す、すかさず俊夫、ライターをさし出す。
俊夫ふと、つまり俺がサービスしとるのは、ヒギンズをなにかの方法でまいらせたい、酔いつぶすでもええ、女に惚(ほ)れさせるでもええ、日本のなにかに、あのにたにた笑ってくそ落着きにおちついとるヒギンズを、熱中させ、屈服させたい、それを願うとるのではないかと気づく、
「バカみたい、同じ話ばかり」不服そうにいい、
「いやなことは思い出さないのがいちばんよ、毎年、夏になると戦記ものとか、やれ終戦の思い出とかって出るでしょ、いやな気がするわ、そりゃ私だって母におぶわれて防空壕へ入ったこと覚えてるし、スイトン食べた経験もあるわよ、だけどいつまでたっても、昔の戦争ほじくり出して、八月十五日の記憶をあらたになんて、いやね。苦しかったことを自慢してるみたいで」
京子はむきになっていいつのり、そういわれれば俊夫はだまるより手がない、
会社で若い連中に、ふと口がすべり空襲、闇市のあれこれしゃべると、連中はいかにもまた十八番(おはこ)がはじまったという風に薄笑いうかべ、とたんに俊夫は、不安に襲われ、感慨こめてあわてて打ち切る、
八月十五日に、ことさら二十二年目かといえば、老人のくりごとととられかねないのだ。
「アメリカひじき」は、昭和42年9月に発表された、直木賞受賞作(昭和43年)です。アメリカ人にペコペコしてしまう心理など、戦後22年の人々の気持ちや空気感が描かれていて興味深いです。
戦争責任者の問題 伊丹万作
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。
私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。
ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。
たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。
上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。
すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧(ちえ)で一億の人間がだませるわけのものではない。
つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直(す)ぐにわかることである。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇(よみがえ)ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。
だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた (たとえ軽重の差はあるにしても) 当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。
しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁(ちょうりょう)を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語のもつ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹(あんたん)たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今度も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけがない。
この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじゃく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造することを始めることである。
(『映画春秋』創刊号、昭和二十一年八月 )
と、伊丹万作さんのエッセイを読んでから、もう一度「アメリカひじき」の登場人物たちを思い出してみましょう。
きっと最初に読んだ時よりたくさんの感想がうかんでくることと思います。
そういう積み重ねが、読解力の向上と、深い演技の表現につながっていくと思いますよ。
伊丹万作氏のエッセイは、かなり有名で、いろんなところで引用・紹介されているそうです。
わたしは高橋源一郎さんのNHKラジオ番組で知りました。
まさに時代を超える鋭いメッセージですね。肝に銘じたいと思います。
参考文献