伊賀忍者その後
戦国の忍びは、その後どうなったのか
豊臣秀吉の天下統一、さらに江戸幕府成立によって、戦国争乱は終息しました。
その結果、大名家臣は、武士身分だけとなり、戦国期に戦いに勝ち抜くため、村町の百姓、町人をも在村被官(ざいそんひかん)や野臥(のぶせり)、一揆として動員する状態は解消され、在村被官も、主従関係を解消されました。
それと軌を一にするように、社会に滞留する牢人、渡り奉公人たちを、大名が召し抱えるという構図もまた沈静化をみることとなりました。このことは、忍びたちにも及んでくるのは想像に難くありません。
伊賀忍者その後
織田信長に対抗すべく結成された伊賀惣国一揆(そうこくいっき)*1は、天正七年(1579)の織田信雄(北畠信雄 きたばたけのぶかつ)の侵攻を見事に撃退した。
だが、天正九年九月、織田信長の伊賀攻めによって壊滅し、伊賀の国衆クラスは処刑されるか、国を追われることとなった。
また、百姓らはなで斬りにされ、伊賀はまさに焦土と化したといわれる(天正伊賀の乱)。
いっぽうで、織田に降伏、臣従した村の侍(被官)も少なくなかったという。こうして、生き残った伊賀の忍びは、織田権力に組み込まれたほかは、他国へと散っていったらしい。
伊賀に残った者たちも、天正十三年(1585)、豊臣政権から伊賀を与えられた筒井氏により、侍衆は牢人となるか、百姓となるかの選択を迫られ、牢人を選んだ者たちは所領を没収され、ことごとく国外に追放されたという。
慶長十九年(1614)に勃発した大坂冬の陣において、「伊賀衆」は「紀州国衆」とともに、豊臣方として大坂城に籠城(ろうじょう)している。
すでに、多くの伊賀衆が、徳川氏や諸国大名の配下に組み込まれていた時代に、大坂方として籠城していたもう一つの伊賀衆がいたことは、彼らこそが、傭兵として主を替えながら諸国を渡り歩く、戦国の忍びの最後の姿だったといえるのかも知れない。
伊賀や甲賀の忍びは侍身分
忍びたちの多くが、アウトローとしての悪党出身だったこと、それゆえに仲間として、戦場では頼りになる存在だが、素行不良で、その任務も決して洗練されているとはいえぬものとして、武士からは蔑視(べっし)の対象とされた。
だが、忍びの任務を果たした者の中には、村町から参加した百姓、町人や一揆(いっき)野臥(のぶせり)として動員を命じられた人々はもちろん、武士身分でも大名当主から参加を命じられた者も含まれていた。
伊賀や甲賀で、忍びだった由緒を持ち、忍術書などを伝える家は、もと侍身分であった者たちであり、アウトロー出身の忍びとは一線を画している。
忍術書とは、侍身分の忍びの兵法であり、アウトローのノウハウとは別物と考えるべきであろう。
次回は、甲賀忍者のその後です。お楽しみに。
参考
戦国の忍び 角川新書