甲賀忍者その後
甲賀衆について
天正二年、織田信長に屈服、従属した甲賀衆は、その後、織田軍に従軍して西国を転戦した。
そして、豊臣政権が成立すると、引き続き、秀吉に仕え活動した。
ところが、天正十三年、秀吉は紀州雑賀(さいか)攻撃を終えると、太田城の水攻めの時に、甲賀衆の持ち場が決壊した失態の責任を問い、二十人の甲賀衆を改易(かいえき)処分とし、所領を没収、追放とした。
さらに同年、甲賀を支配した水口(みなくち)岡山城主中村一氏(なかむらかずうじ)により、他の甲賀の武士たちも、所領を奪われた。
こうした一連の事態は、「甲賀ゆれ」などと呼ばれ、永く記憶された。そして「甲賀ゆれ」により、甲賀衆と甲賀郡中惣*1も解体したと推測される。
その後、甲賀衆が忍びとして、活動したことがはっきりわかるのは、寛永十四年(1637)から同十五年二月まで続いた、島原天草一揆(しまばらあまくさいっき)における原城(はらじょう)潜入などの任務である。
そしてこれを最後に、甲賀の忍びの活動は、完全に姿を消すこととなった。
近世大名の中には、伊賀者、甲賀者を家臣として迎え入れた者もいましたし、伊賀衆、甲賀衆の中核は、江戸幕府の御庭番(おにわばん)として登用されました。
ですが、戦国期に全国で相当の人数を数えたと推定される忍びたちすべてが、召し抱えられ続けたわけではありません。そもそも、それは不可能だったのです。
むしろ、そこから漏れた人々の方が多数だったと思われます。
武田・北条氏など、著名な戦国大名の多くが、滅亡していきました。その遺臣たちの中には、幕府や各地の近世大名へ再仕官が実現した者もいましたが、それが出来ずに牢人したままいつしか消えていった者たちも多くいたのと同じです。
武士ですら、再仕官が困難だった時代ですから、忍びたちはなおさらだったでしょうね。
次回は風魔忍者その後です。お楽しみに。
参考
戦国の忍び 角川新書