風魔忍者その後
風魔 (風間) は、北条氏滅亡後、行方が分からず、徳川氏にも仕官していません。
家康には、すでに伊賀者、甲賀者が仕官していたから、風魔を迎え入れる余地などなかったのかも知れません。
つまり、北条の透波(すっぱ)*1たちは、幕府や諸大名への仕官が叶(かな)わず、風魔をはじめとする多くの透波は、再び悪党の道へと回帰してしまっていたのかもしれません。
そして、江戸幕府による、近世初期の盗人狩りや、牢人、傾奇者(かぶきもの)対策によって、姿を消していったと考えられるのです。
風魔忍者その後
慶長のころ、諸国には盗人が横行し、とりわけ関東には多かったという。
江戸幕府は、あちこちで捕縛しては、斬首(ざんしゅ)、磔刑(たっけい)、火焙(ひあぶ)り、などに処し、見せしめとしたものの、盗賊は一向に減らなかった。
ところが、下総(しもうさ)国向崎(千葉県神崎こうざき町)に甚内という大盗賊がいたが、彼が訴人(そにん)*2になったという。
甚内は、関東を根城に、諸国で悪行をする盗賊は、その昔、名を馳(は)せた風魔の一類など、透波(すっぱ)の子孫たちで、その数は千人あるいは二千人にも及ぶと告げ知らせたという。
甚内は、自ら案内人を買って出て、盗人狩りの大将となり、奉行たちを先導し、各地の村々や、野原、果ては山奥に隠れ住む盗賊たちを、次々に捕縛していったという。
山に隠れていた盗賊は、勢子(せこ)を入れ、あたかも源頼朝が、富士の巻狩りを行い、大成果を挙げたのと同じやり方で摘発した。
かくして、風魔の残党らは、この世から消えさったのだという。
甚内その後
風魔ら透波の残党や子孫らの根絶やしに、功績があった甚内は、その後、増長したため、江戸の奉行衆は、慶長十八年、甚内とその手下の粛清(しゅくせい)を決定したという。
甚内は磔刑に処せられた。
一説に「向崎甚内」は、高坂甚内といい、武田遺臣であったとも伝わる。
もし事実なら、彼は武田の透波の残党か、その子孫だったのかも知れない。甚内の伝説は、今も東京都台東区浅草橋三丁目に、彼を祀(まつ)る甚内神社と、ゆかりの甚内橋址(あと)として記憶されている。
以上、風魔忍者その後でした。それでは、また。
参考
戦国の忍び 角川新書