ワークショップ 声優演技研究所 diary

「なんで演技のレッスンをしてるんですか?」 見学者からの質問です。 かわいい声を練習するのが声優のワークショップと思っていたのかな。実技も知識もどっちも大切!いろんなことを知って演技に役立てましょう。話のネタ・雑学にも。💛

墓標なき八万の死者

満蒙開拓団の壊滅

満蒙開拓団の人々は〝国策〟と呼ばれた至上命令を信じて満州に渡った。

昭和20年8月9日、ソ連参戦と同時に彼らは日本軍に放棄され、一切の保護を失って、血と泥と雨の中の逃避行を続け、虐殺、暴行の地獄を彷徨し、収容所では飢餓と寒気と悪疫にさいなまれた。

女たちはその上に、異国の男の獣欲にまでさらされねばならなかった。

こうして多くの開拓民——日本人の大集団が非業の死をとげ、全員が財産を失った。

この人たちの悲劇は、これで終わってはいない。戦後二十何年かたった今日なお、癒(いや)すことのできない痛手に苦悩の日を送っている人々が多いのである。*1

敗戦直後の満州で極限状態におかれた人たちの姿に、私は改めて人間というものを考えさせられたと同時に、今日なおうずく傷を負い続ける人々の姿は、私に国家と国民との関係を考えなおさせる。

関係のない、どこか遠い国の話ではない。

これは私たちの同胞の姿であり、私たちの国家のことである。

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開拓民の受難の記録を私は書いたのだが、これは物語ではない。あくまで事実だけを追った。

ソ連参戦——昭和20年8月9日、満州国東安省密山県黒台信濃村——

蜜蜂のうなりのような爆音に気づいた加藤清乃は、畑仕事の手をとめて空を仰いだ。ここは昭和12年に、長野県の各地から渡満した人人が入植した第五次信濃村開拓団である。

暗緑色の翼の三機が、南へ向かっていた。
昨夜から関東軍の大演習でも始まっているのか、しきりに砲声が伝わっていたが、この戦闘機もそのためであろうか——。
頼もしそうに機影を見上げる清乃の口許に、微笑が浮かんだ。彼女はそこに、きょう夜明け前に出征していった夫・加藤松三の姿を描いて、語りかけた。

 

——父ちゃん、るすはしっかり守ってゆきますよ。

 

松三が招集を受けたのは、おとといだった。
その夫が戦闘機に乗っているはずもないのだが、清乃にとって、今は日本軍のすべてが夫とつながるものに思われた。


暗緑色の機影を仰ぎ見る彼女は、あとに残された田畑を、身を粉にしても立派に守りぬかなければならない——と身をひきしめた。

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清乃の家だけではない。この年の五月ころまでに団の男の八割は招集されていたが、八月に入ってからの、十八歳以上四十五歳までの根こそぎ動員で、ほとんどの家が男手を奪われていた。

 

急に家長の座についた主婦たちは、みな健気(けなげ)に重い責任に耐えていた。夫の分までも働いて、軍への供出を少しでも多く——それは強制されたものであったが、命令されるまでもなく女たちは精いっぱいの努力を続けていた。

 

お国のため——なのである。
これほど大切なことが他にあるだろうか。


まして自分たちがソ連の国境に近いこの北満の地で、安心して開拓を続け、着々と生活の基盤を築いてゆけるのも、関東軍がしっかり守っていてくれるおかげである。

その軍に、できるだけの協力をするのはあたりまえのこと——と、彼女たちは思っていた。

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ソ連が攻めこんできたッ!団本部の協議で避難することに決まったから、あすの朝十時までに二区に集合!」

 

緊張にひきつった伝令の顔を見つめて、清乃はとっさに声も出なかった。

——ソ連と日本との間には不可侵条約とかがあって、決して戦争にはならんと聞いていたが・・・避難といってもほんの数日ここを離れるだけだろうが、それにしても、夫からあずかった田畑を放り出して逃げてもいいものだろうか。

 

「行かにゃあ、いかんのでしょうか・・・」
「ここにいては危ないのだ!今朝から何度もソ連の戦闘機がこの村の上を飛んでいるし・・・あす朝、十時までに・・・」

 

清乃は膝をついたまま、南へ飛び去った暗緑色の飛行機を思い浮かべた。

 

——あれがソ連の飛行機だったのか。私は敵に向かって手を振っていたのか——。

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十日の未明から、村は敵機に襲われた。

この開拓団のある東安省は、ソ連国境の真正面に位置している。

繰り返し行われる爆撃は、人々がなお心の隅に残していた〝ソ連参戦への疑い〟を吹きとばし、「疎開しても、じきに帰ってこられるだろう」などという甘い見通しを無残にうち砕いた。

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二区の集合地を目指して、清乃は懸命に馬車を急がせる。

荷台の、こぼれるほどに積まれた荷物のかげに、孫二人を体で包みこむようにして志保*2が座っていた。

ソ連機の爆音と機銃掃射の音を聞きはしたが、すでに何度も経験しているので、自分とは関係ない距離と判断して歩き続けた数分後、彼女は道に置き去りにされた車の荷台に、三人の幼児の惨死体を見たのである。

機銃掃射で殺された子供たちは、どっぷりと血を吸ったふとんの上に折り重なり、あお向けに倒れた女の子はポカンとした表情で、見開いた目を空に向けていた。

 

清乃は馬を急がせながら、目に焼きついた情景と必死で闘っていた。

昨日まで、照るにつけ降るにつけ、心を配ってきた左右の麦畑など、もう目にも入らなかった。

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二区の集合所を目指して、各部落の馬車があとからあとからと集まってきた。

 

昨夜の伝令の話では、ここで避難行の編成がされるはずであったが、二区の住民たちは他の部落の到着を待たず、とっくに出発していた。

それを知った人々は、危険地帯にとり残された思いにつき上げられ、あわてふためいて前へ進もうとする。

 

一刻も早く、強力な手にすがりつきたいのである。

誰の胸にも、日ごろ〝無敵〟と聞かされている関東軍の名が、護符のように抱かれていた。

——不可侵条約を犯して攻めこんできたソ連軍は、やがて関東軍に撃滅されるだろう。

そうに違いない。

早く日本軍のいる地域にたどりつかなければ・・・。鉄道の駅へ出れば、汽車で軍の所在地へ行かれるだろう——。

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これほど開拓民に信頼され、その奮戦を期待されていた関東軍とは、どのようなものであったのか。

 

1941年(昭和16年)6月、独ソ開戦ののち、関東軍はソ満国境地帯に大部隊を集結して、ソ連に脅威を与えた。いわゆる関特演である。

 

この年の12月、日本は太平洋戦争に突入した。

 

その後も関東軍満州に兵力を充実して、攻撃能力を維持していた。

しかし太平洋方面の戦局の悪化で、昭和18年10月、関東軍第二方面軍司令部を濠北方面に転用したのを契機に、在満兵力は次第に太平洋方面に抽出されていった。

その結果、昭和19年末には、戦力は最盛時の二分の一以下に低下し、さらに抽出転用は増加する情勢にあった。


対ソ攻撃作戦など、考えることもできない状態である。

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昭和20年5月、ナチス・ドイツは壊滅した。

 

ドイツ壊滅後、ソ連軍の東方移動が急に活発となった6月4日、梅津美治郎参謀総長は大連に飛び、全満州の四分の三を放棄して、新京を頂点とし朝鮮国境を底辺とする三角地帯を防衛し、特に通化を中心とする東辺地帯を確保せよ、という指示であった。

 

全開拓民の半数以上が所在する国境沿いの北部、東部地方は、ソ連参戦の約二ヵ月前に、開戦のあかつきには放棄と日本軍首脳部によって決められていたのである。

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これほどまでに事態は切迫していたのだが、なぜ関東軍は国境地帯の開拓民の安全を計る措置をとらなかったのか。

 

国境地帯の日本人が大量に移動すれば、全満に不安動揺が起こり、それによってソ連の参戦の時期が早まりはしないか——という恐れを抱いたためである。

 

ソ連参戦の一日でも遅いことを願う軍は、ソ連を刺激しないため——〝対ソ静謐(せいひつ)保持のため〟戦略的に開拓民の放棄を決定したのである。

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こうして、あすにも火を噴くかもしれないソ連軍の砲口の間近で、その危険も知らされぬままに働き続けていた開拓民は、祖国に対し、軍に対し、どのような態度をとっていたか——。

 

日本の敗色が次第に濃く、内地の食糧事情が悪化するにつれて、満州の開拓団に寄せられる期待と負担は急激に増していた。

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昭和16年以来、11月23日の新嘗祭(にいなめさい)には、明治神宮に開拓地の農産物を献納し続けてきた。

終戦も間近い時期に献納されたそば一万石は、満州移住協会が明治神宮から払い下げの形式をとり、東京そば組合の手を経て、空腹に悩む一般市民に届けられている。

 

中央からの指示による米穀の供出はもとより、現地部隊からも馬糧としての燕麦や乾し草、蔬菜(そさい)、羊毛、肉、皮革、木炭などの供出命令があった。終戦間際には松根油の採取、山ぶどうの採取、わらびの生産などにも労力奉仕を行った。

 

こうした指令をたずさえて開拓団に来る将校たちは、その度に〝無敵・関東軍〟の威力を誇り、その力をいっそう発揮するための協力を開拓民の義務として強要した。

 

将校の話には〝未曾有の国難〟や〝皇国の運命を決する戦い〟などのことばがしばしば使われたが、情報にうとい開拓民に戦局の判断などつくはずもなかった。電気のない村が多く、ラジオさえなかった。

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昭和20年にはいると、開拓民の前に立つ軍人の表情はいっそう厳しさを増し、軍民一致を説く声は怒号に近かった。

 

当時の関東軍は、兵器、軍需品も欠乏し、命じられた作戦遂行には野砲四百門が足りず、応召兵の小銃さえ十万梃(じゅうまんちょう)が不足している状態であった。

 

この惨憺たる実情を知ればこそ、将校たちは開拓民の前でいよいよ虚勢を張り、〝皇国不敗〟の神話を声を荒らげて説く結果になった。彼ら自身がなんとか自分のことばを信じ、神話にすがりたかったのである。

 

だが開拓民にそうした軍人の心理などわかるはずはない。

 

彼らは軍人の緊張を頼もしく眺め、いっそう農耕に励み、自分たちは粗食しても軍への供出には良質の品を豊かにそろえた。

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開拓民は物資や労力を捧げただけでなく、壮年の男子は次々に軍へ吸収されていった。

 

19年9月までに、関東軍の兵力の多くがグアム、パラオ、レイテ、ルソン、沖縄などの決戦場に投入され、その後も兵力抽出は続けられていた。

 

関東軍は対ソ戦闘兵力の充実からも、作戦準備を急速に進めるためにも、大本営発表による支那派遣軍からの転用兵力を便々と待ってはいられなかった。

 

自力により兵力の増強を計るほかなく、満州での動員可能の人員約二十五万がその対象となった。

 

20年7月以後の〝根こそぎ動員〟である。

 

この動員は日ソ開戦の8月9日以後も継続され、さらに十万人が召集された。

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——指導員が清乃に声をかけた。

「これは、まさかの時のために・・・」

清乃の手のひらにのせられた二個の薬包みに何がはいっているのか、説明は抜きだった。

清乃は表情を失った顔で深くうなずき、薬の包みをふところに納めた。

青酸加里の包みである。

 

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チェーホフの銃

 

「もし第1章で、壁にライフルが掛けてあると述べたなら、第2章か第3章で、それは必ず発砲されなければならない。もし、それが発砲されることがないなら、そのライフルはそこに掛けられるべきではない。」

この概念は、ロシアの劇作家アントン・チェーホフに由来している。

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「墓標なき八万の死者」は、事実のみを伝えたノンフィクションですが、「チェーホフの銃」の概念は生きていました。

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青酸カリの包みは、使われることになってしまうのです。

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それってネタバレ・・・いえいえ、実はここまでで、全体の6分の1。メッチャ中身が濃い作品です。

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この本のすごいところは、とにかく読みやすいこと。スイスイ読めちゃいます。ページをめくる手が止まりません。

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読みやすさは大切です。

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なぜなら読みやすければ読みやすいほど、一人でも多くの人に戦争の実情や悲惨さが伝わるからです。

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「墓標なき八万の死者」文句なしにおすすめします。

敗戦の昭和20年、満蒙開拓青少年義勇隊や報国農場隊を含み、27万に達する開拓民が満州にいた。

引用
墓標なき八万の死者 中公文庫

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www1.odn.ne.jp

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*1:

「墓標なき八万の死者」は、昭和42年11月、番町書房より出版されました。

*2:

清乃の姑