自分に潜む「なにか」に操られる感覚
目次
舞踊靴 川端康成
彼女は金色の舞踊靴を穿いて踊った。
そして、素足で穿く金色の舞踊靴に、彼女の足の脂汗(あぶらあせ)がしみこんだころであった。
舞台裏の階段を下りようとすると、子犬がいきなり彼女の靴に咬みついた。歯が足の甲にも突き刺さった。
きゃっと叫んで倒れると、金色の靴をくわえて逃げていく白い犬を見ながら、彼女は気が遠くなった。
踊るのに差支(さしつか)える傷ではなかったが、彼女の足からは喜びが消えた。踊子の死であった。
彼女は急に夢から覚めたように感じた。
目が覚めると同時に、自分が死んでしまったようにも思われた。
生き返ったようにも思われた。
ただ、見物の喝采(かっさい)が、冷笑のように聞こえ出したというだけのことであったが、それが彼女にとっては、生死ほどの驚きであった。
気がついてみると、自分の踊り方もつまらない。踊ることもつまらない。裸を見せる、味気ないなりわいであった。
彼女は大変賢くなったようには思った。
しかし、それにしても、犬に足を咬まれるまでは、自分の足には確かに一つの生きものが棲(す)んでいた。その生きものは、どこへ逃げて行ったのか。
今から考えると、あれは確かに、自分とは別の生きものであった。
そのような生きものを、自分のなかに棲まわせている人間だけが、生きている。その生きものが失せ去ると、賢くはなるが、水の止まった水車みたいに、人間も死んだようになってしまうらしい。
自分の足は、もう生きものの棲み荒した、朽ち果てた古巣であろうか。
彼女の足の生きものは、金色の舞踊靴と一緒に、白い魔のような犬がくわえて行ってしまった。
ジャズは空っぽの音として、彼女に聞えた。
自分の中に潜む、「なにか」に操(あやつ)られているのではないか・・・それは自分とは違う別のもので・・・。
そんな感覚を味わったことはありませんか。
舞台役者の中には、「役の人物が自分の中に降りて来た」という表現をする人が、けっこういます。
そういったことも、この奇妙な感覚の一種なのかも知れませんね。
因(ちな)みに、この小説はこれで終わりじゃありません。
佳境に近づくにつれて、川端文学によくある「変態的な魔の要素」がどんどん出てきます。
興味のある方は、ぜひご一読を。
引用
掌の小説 新潮文庫
「人形つかい」との共通点
自分ではない何者かに操られている感覚・・・これはちょっと前に紹介した「人形つかい」にも通じるテーマです。
「人間に寄生して精神を操るSF作品は、他にどんなものがありますか?」と生徒から質問されましたので、早川書房「人形つかい」巻末の解説を引用させていただきます。
侵略SFの代表的名作
作家 森下一仁
本書は宇宙生物による地球侵略をテーマとしたSFの名作である。
侵略者はナメクジのような形態をしており、本文中でも「ナメクジ」と形容されているが、むしろ「ヒル」といった方がいいかもしれない。
ヒルが血管に吸い付くように、人間の神経に吸い付いて精神を乗っ取る。
あらゆる生物の原則にしたがってこの〝ナメクジ〟も繁殖を至上命題とし、人間を次々と自分たちの操り人形へと変えてゆく。
この危機にどう立ち向かい、どう対処するか。ハインラインは持ち前の生き生きとした筆致で、主人公サムの活躍を描く。
地球が侵略される物語の嚆矢(こうし)は、いうまでもなくH・G・ウエルズの『宇宙戦争』(1898年)である。
半世紀後の1951年、<ギャラクシー>誌に三回連載された本作品は、ウエルズの創出したパターンを踏襲しながら、おもに二つの恐怖を導入することによって、侵略ものに新たな展開をもたらした。
恐怖の一つは、人間精神の寄生という、いわば個人の「内部への侵略」である。
もう一つの恐怖は、そうして侵略された隣人が健全な一般人と見分けがつかないという不信感から来るもので、「成りすまし侵略」とでも名付けることができるだろう。
『人形つかい』の〝ナメクジ〟がもたらす恐怖をこのような二つの側面に分解すると、それぞれ同類の作品が存在することがわかる。ざっと見てみよう。
内部への侵略
まず、「内部への侵略」をテーマにした作品には、クラーク・アシュトン・スミスの代表的短篇「ヨー・ヴォムビスの地下基地」(中村融編訳『影が行く』創元SF文庫所収)がある。
これは、火星の遺跡に潜むヒルのような怪物が探検隊を襲い、人の頭に吸い付いてその者を支配するという物語である。
この作品は1932年の<ウィアード・テールズ>誌に発表された。人間の精神に吸着するヒルというアイデアは、そのおぞましさといい、衝撃の強さといい、それだけでひとつの物語系列を形成しているといっていいかもしれない。
『人形つかい』の書かれた1951年にはもう一作、「内部への侵略」テーマの忘れてはならない名作が発表されている。
ウォルター・ミラー・ジュニアの中篇「黒い恩寵」(川村哲朗訳/<SFマガジン>1965年6月号)がそれで、微小な宇宙生物が病原体として、人間の神経組織を——そして精神をも、侵すという筋書きである。
生理的おぞましさという点で『人形つかい』に優るとも劣らないが、ここでは〝侵略〟が人類にもたらす意味合いがまったく対照的なものとなっている。
こうした寄生を「恩寵(おんちょう)」かもしれないと捉えるウォルター・ミラー・ジュニアに対し、ハインラインはあくまでも「人類への脅威」一点張りである。
人間の精神も肉体も、他者に侵されることは絶対に許されない。おぞましい敵を叩きつぶすことこそが主人公の成長のあかしであり、幸福の獲得へと結びつく。
このわかりやすさがハインラインの真骨頂だろう。二人の作家の思想や性格の違いを知る上でも、両作品の対比は面白い。
また、ハル・クレメントの『20億の針』(1950年、井上勇訳/創元SF文庫)も、やや趣は異なるものの、当時書かれた同一分野の傑作といっていいだろう。
宇宙からやってきた二体のアメーバ状生物が、人間と共生する形で、逃亡・追跡劇を繰り広げる。
こうしたテーマがいつの時代にも興味を惹くものであるとはいえ、特にこの時期、SF作家たちはヒトの「内部への侵略」に興味をもっていたように思える。
成りすまし侵略
「成りすまし侵略」の方に目を転じよう。
この恐怖を描いた古典としては、ジョン・W・キャンベルの中篇「影が行く」(前出『影が行く』所収)が真っ先に挙げられる。
この作品は1938年<アスタウンディング>誌に発表され、1951年にハワード・ホークスによって『遊星よりの物体X』として、また1982年にはジョン・カーペンターによって『遊星からの物体X』として映画化されている。
あらゆる生きものの姿をとることができる侵略者は、もちろん人間に成りすますことも容易である。
ジャック・フィニイの『盗まれた街』(福島正実訳/ハヤカワ文庫SF)もこの種の作品として忘れることができない。こちらは『人形つかい』から四年後、1955年に発表された。原題からとった『ボディ・スナッチャー』というタイトルのもとに何度も映画化されている。
この種の作品は映画化されやすいのだろうか、フィリップ・K・ディックの1953年の傑作短篇「にせもの」(『パーキー・パットの日々』浅倉久志訳/ハヤカワ文庫所収)も『クローン』として2001年に映画化されている。
外見は人間でありながら中味はまったくの別物という存在は、私たちの社会を根底から揺るがす。
私たちが社会生活を営めるのは、他人も自分と同じ「心」をもっていることを前提としているからである。
その前提が崩れるとしたら、一人一人が孤立して生きるしかない。社会そのものが成り立たなくなるだろう。
脳神経学
脳神経学者のⅤ・S・ラマチャンドランは『脳のなかの幽霊』(サンドラ・ブレイクスリーとの共著、山下篤子訳/角川書店)で「カプグラの妄想」という「神経学でもいちばん稀で派手な部類に属する」病状を紹介している。
この病気の患者は自分の親や兄弟などごく親しい人物を「にせもの」だと感じる。
外見は親や兄弟と同一だが、本物だと信じることができないのである。
それどころか、アルバムに貼られている自分の写真を見て「これは僕にそっくりですが、僕ではありません」といったり、さらには、本物の自分が別にいるといったりする。
患者は自分自身をさえ「にせもの」と感じることがあるのである。
ラマチャンドランは、この妄想が、脳の中の「顔の認知」を担当する領域と、「親しさの感情」を生み出す領域の間の連絡が途絶えたことによる障害であることを明らかにしている。
そして、周囲のものごとが「親しさの感情」と結びつくことによって初めて、私たちは世界を馴染みのある統一のとれたものと感じることができるのではないかと示唆する。
逆にいえば、この機能が失われると、人は見知らぬ世界に一人で投げ出され、自分自身を信じることさえできなくなってしまうのである。
「成りすまし侵略」を描くSFは、この重大な恐怖をいつの間にか探り当てていたのである。
この恐怖に捉われると、人は、自分が自分であることさえもわからなくなってしまう。
『人形つかい』の主人公サムの活躍は、親しい世界を守るとともに、自分自身を獲得するためのものでもある。
ともあれ、『人形つかい』における〝ナメクジ〟との戦いからは、様々な意味を汲み取ることができる。
それだからこそ、この作品は名作であり続けているのだと思う。