川端康成と上手な文章のヒント
「可愛い」というワード(言葉)をつかわずに、読者に「可愛い」と感じさせる文章を書きましょう。
「上手な文章の書き方」みたいなコラムにそう書いてありましたが、川端康成の文章はまさにそれですね。
故園 川端康成
私が門口をあけるなり、えらい足音で駈(か)け出して来た子供は、怒って顔を真赤にして、
「おそいなあッ。」
と叫ぶと、両手の握りこぶしを肩まで振りあげて、私をなぐるように抱きついた。
走って来た勢いで、玄関の上から下の私をなぐろうとしたから、子供はたたきに落ちて、私に抱きついたわけだが、私の体に感じたのは、なぐるようにして抱きついた子供であった。
私は少しよろけて、
「ごめん、ごめん、おそくなってごめん。」
と、真剣に詫(わ)びながら、子供の肩を抱いた。
子供は私の胸で、いっときじっとして、呼吸を静めた。十二歳の女の子だ。
約束の時間よりも二時間半も、子供は一生懸命に待っていたので、私共の足音がすると、わっと泣くように飛び出して来たのだろうが、この子のこんな愛情は、私には全く不意だった。私の妻もはっとして、私の顔を見た。
この子をもらうことに大方話はきまっていても、私は三四度ちょっと会っただけだし、妻は昨日会ったばかりだった。顔を真赤にして、なぐるように抱きついて来ようとは、思わなかった。
その子供の体は、私にぶっつかると同時に、もうやわらいでいた。私も子供といっしょに、なにかひたむきに甘い安心をしたようだった。
五つの年から母親ひとりに育てられて来た子供が、その母親と別れて、私共の子供になってもいいと、子供自身できめたという幼い心は、たとい将来私共と子供とのあいだがどう悪くなろうとも、私はそれを越えて、感謝することを忘れまいが、その子供の心が初めて激しくあらわに、私のふところへ飛びこんで来たのは、この時だった。
私共が二時間以上も約束におくれたことが、私の一生ありがたい記憶をつくることになったのは、子供にはかわいそうなことだった。
私の子供になろうというのは、幼い心にも、そうなまやさしいものでないのが、この時から私にも確かめられ出した。
――子供は私共の家へ来ると直ぐから、よくなついて、あまえて、まとわりついて、隔(へだ)てがなくて、さびしがらないで、貰(もら)い子らしい気苦労をなにもさせないのは、むしろ不思議なくらいで、
「いい子ですねえ。」
と、妻も感に堪えないように言ったが、この子のそういう生れつきばかりでもなかろうし、母親がそういう風に育てたためばかりでもなかろう。私共に対する子供の心が多いのだった。
玄関へ駈け出して来た時は、子供がそれを爆発させたのだった。
川端康成のすごいところは、「可愛い」というワードをつかわないだけでなく、
怒って顔を真赤にして、
「おそいなあッ。」
と叫ぶと、両手の握りこぶしを肩まで振りあげて、私をなぐるように
「怒って顔を真っ赤に」「叫ぶ」「握りこぶし」「なぐる」など、可愛さをイメージさせるのとは正反対のワードを使って、可愛さを表現してしまうところですね。とんでもない文章力だと思います。
川端康成は、実際に養子をもらっています。
覚書 川端香男里
「故園」に描かれている養女が鎌倉二階堂の川端家にもらわれてきたのは、昭和十八年三月二十二日である。
年譜 昭和十八年(1943年)四十四歳
三月、母方の従兄(いとこ)、黒田秀孝の三女麻紗子(戸籍名政子)を養女として引きとるため大阪に行く(「故園」には、大阪行きが三月十二日から二十二日までとある)。五月三日、養女として入籍。それをきっかけに「故園」が書かれたが、時勢の厳しさもあって難渋し、未完に終っている。
「母の初恋」「女であること」など、実の子ではない子を、自分の家に住まわせる作品が川端康成にあります。どちらも傑作です。
実際に養子をもらって育てた経験が、作品世界にリアリティをあたえているんでしょうね。それでは、また。
引用
天授の子 新潮文庫