俺は戦犯になる。死刑になる。だが俺は生れかわってくる。
蝮のすえ 武田泰淳
俺は日本精神の演説をした。君が言うとおり、聴き飽きるほどした。
人々はそれを信じて死んだ。
俺の若い兄弟も死んだ。奴等はもう二度と生き返らん。
生き返りはせんさ。夢枕(ゆめまくら)にもたたん。
忘れられる。
はじめはだんだんと、しまいにはキレイサッパリ、忘れられるんだ。
そういう世の中を、君はどう思う。
俺は日本精神なんかなくても生きていられる。今日も生きてる。
なくても生きていられるくせに、日本精神なき者は売国奴だと演説した俺と、
そんな俺の演説をまに受けて喜んで信じてさ、死んでしまった奴等とそれからまた、Aのような奴、君のような奴、あの女のような奴、
そんな奴等でできあがっているこの日本という奴は、これは一体何なのだ。え、何だ、これは。
俺は死刑になる。それは天罰だ。天罰でなくてもいい、しかし罰だ。つまり世界の罰だ。そうしておいて、一向さしつかえない。
だが、俺を罰したところで、すまんよ。すみはせんよ。
俺はまた生れかわってくる。
たぶんは同じ日本人として生れかわってくるんだからな。
もしかしたら、この人種は、つまり俺たちは、絶滅された方がいいかもしれんよ。
どっちにしろ、このままただですまんよ。すむはずがない。これは苦笑で終る問題じゃない。皮肉で終る問題じゃないんだ。
な、君もふくまれているんだ。インテリーもふくまれているんだからな
——俺はまた生れかわってくる。
たぶんは同じ日本人として生れかわってくる——
いろいろ考えさせられる言葉ですね。「蝮(まむし)のすえ」は太平洋戦争が終わった2年後の昭和22年 (1947年) に連載が始まり、翌23年 (1948年) に思索社より刊行された小説です。それでは、また。