みんな水の中
私はいわゆる発達障害者だ。
もしかすると私の「仲間」でも、多くの人は、私のような考え方や感じ方に無縁という可能性もある。
だが、それで良い。
それこそが「脳の多様性」なのだから。
私もあなたも、脳の多様性を生きている。
脳の多様性とは、英語で言えばニューロダイバーシティ、神経多様性とも訳されるものだ。
私は神経発達症群の当事者だ。
それは日本での一般的な言い方をすれば発達障害者ということになる。
あなたは私と同じくそうかもしれないし、そうではない「定型発達者」かもしれない。いずれにしても、脳の多様性を体現している。
発達障害者という言い方は、本書で応援する社会モデルの考え方からすれば、不適切な表現というほかない。
社会モデルは医学モデルと対をなす用語で、医学モデルが障害の発生場所を個人に見るのに対して、社会モデルはそれを環境に見る。
たとえば、視覚障害者が社会から充分な支援を受け、生きていく上でなんの困難もないと感じる環境を得られれば、その人は「眼が見えないだけの健常者」ということになる。
楽器を弾けない人がいるように、特定の食べ物を食べられない人がいるように、そもそも人間が自力で空を飛べなくても、それだけでは決して致命的ではないように、眼が見えないだけなのだ。
この考え方に立つならば、発達障害者も、環境との不一致を起こしているからこそ「障害者」になっているだけだと言える。
村中直人は定型発達者と発達障害者の関係を WindowsとMacの違いにたとえ、前者にできて後者にできないことがあっても、それは欠如や障害ではないと述べている。
まったく同感だ。
ほんとに発達障害者と思っちゃうくらい、すごいです。わたしなんかより、ずっと・・・。
だけどそのような考え方にも、この本の著者、横道誠さんは警鐘を鳴らすのです。
ちなみに、発達障害者は「発達凸凹(デコボコ)」と言いかえたほうが良いという意見もある。
脳神経の発達が平均と異なり、能力のデコボコが生まれているのが発達障害と見なされるからだ。
昔ながらの偉人伝などで、子どものころは学校で落ちこぼれだったが、天才的な一面があり、大きな仕事を成しとげる、などの逸話が語られる人々。彼らは、発達障害者だった(だろうと言われている)人々だ。
ただし、すべての発達障害者が天才肌なわけではない。
その誤解が広まることで、自分の能力の「凸」を発見できず、「凹」に苦悩している人は、さらに苦しむことになってしまった。
だから、発達障害者を美化するのは禁物だ。
なんかギャフンとやられましたてな感じです…。
水の中とは
大学に入るまえ、大江健三郎の『死者の奢り』を初めて読んだときにも、私は自分自身の体験世界の一端を見た。
大学の地下に大きな水槽があり、多数の解剖用の死体がアルコールに浸かっている。
いまでも、私はつぎの箇所を読むときに、心が大江と共鳴しあっているように感じる。
死者たちの一人が、ゆっくり体を回転させ、肩から液の深みへ沈みこんで行く。硬直した腕だけが暫く液の表面から差し出されており、それから再び彼は静かに浮かびあがって来る。
ムージルの未完の長編小説『特性のない男』にも、似た雰囲気の一節がある。
人は別様になってしまった。もはや全体的人間が全体的世界に対峙しているのではなく、人間的な何かが一般的な培養液のなかをうごめいているんだ。
ムージルの場合は20世紀前半の情報社会をこのように表現しているのだが、そこには作者のふだんの身体感覚が織りまぜられているのではないか、と想像されてくる。
なんか、エヴァンゲリオンの一場面を思い浮かべてしまいました。
ところがこちらのそんな思惑も著者には見透かされていたのかもしれません。というのは・・・。
ASDやADHDには実行機能障害と呼ばれるものがある。
これは多様な事態の総称だが、ひとつには体の操作が不自由になるということがある。
東田は「僕たちは、自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われた通りに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなものです」と語る。
この感覚はよく分かる。
私も少年時代には、庵野秀明のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する巨大な人造人間に乗りこんで、羊水のような液体で満たされた操縦室で「動け、動け、動け!動け、動いてよ!と操縦桿(そうじゅうかん)をガシャガシャ動かしているような気がしたものだ。
そのくらい、体がうまく動いてくれない。毎日のようにどこかにぶつかり、転んでしまう。
ここでエヴァが出てくるってことは、水の中の描写でも「エヴァを連想する読者もいるだろうな」と考えていた可能性もあるわけで・・・。
なんか常にこっちよりも先へ先へと、先回りされてるようで、自分より一枚も二枚もレベルが上な人だな、すごいなと思っちゃいます。
映画を見ていて、自分の体験世界に近いと感じたのはカルト的な人気を誇るデイヴィッド・リンチの諸作品(特に『マルホランド・ドライブ』)やペドロ・アルモドバルの諸作品(特に『抱擁のかけら』)だ。
リンチの場合は美しすぎる悪夢というべき映像感覚が、アルモドバルの場合は、そのB級感覚が、ぐにゃぐにゃした現実感を与えてくれ、私の体験世界に似ていると感じさせる。
あえて医学の言説を借りれば、この体験世界は、第一にはASDの感覚過敏に由来していると思われる。
視覚や聴覚の過敏さと、そこから来る疲労が、現実を水のなかの世界のように錯覚させているのだ。
デイヴィッド・リンチは、「ツイン・ピークス」が好きです。夢と現実の境目がなくなったような世界観が、リンチ作品の特徴です。
道元が書いた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のうちの「山水経」に、水の見え方のように物事の見え方はいろいろだという記述がある。
一般に山水を見ることは、存在者の種類ごとに異なっている。
一水四見と言うように、天人は水を装身具と見るが、それでも装身具を水とは見なさない。
人間が見ている何を、天人は水と見なすだろうか。
天人の装身具を、人間は水と見なすのだ。
水を極美の花と見なす存在者もいるが、それでもその者たちは花を水として用いるわけではない。
私は、自分のいる時空もまさしく一水四見だと感じている。刻々と濃度が変換していく水溶液のようなものだ。
その水溶液のなかで浸透圧を受けながら揺らめいている物体として、私は存在する。
大学院生のころ、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』を原書で読み、生物学の「環世界」、「世界的存在」という概念が提唱されているのを見たときも、「ぼくはぼくだけの固有の世界に住んでいるぞ」と感じた。
水溶液のなかで、周囲の環境に合わせて、私という物体は揺らめきつづける。
ハイデガー *1 の名前は、ハンナ・アーレントの本の中にいっぱい出てきました。ただ、このブログ記事にはハイデガーとのことを書くことはしませんでした。
ハイデガーは、アーレントの憧れの人だったのですが、*2 ハイデガーはナチスの党員になってしまい、ユダヤ人であったアーレントはひどく傷つくこととなりました。
第二次大戦後、ハンナ・アーレントは、1950年2月にハイデガーと17年ぶりの再会を果たします。
このときハイデガーはホテルの彼女の部屋で「水をかけられた犬」のようにしょんぼりしていたという。
それはさておき、ハイデガーはとても有名な哲学者です。
ハイデガーについて書かれた本は、わたしも二冊持っていますが——「ハイデガー」作品社 「ハイデガーの知88」新書館——まだ読んでません。
「みんな水の中」いろんなことを考えさせられた本でした。
読み進めていくと、オカルトやスピリチュアルなことには警戒心を持っていたり、(発達障害者の方々や、わたしのようなガン患者には不可欠な要素だと思います) アーサー・C・クラークの「幼年期の終り」を読んでいたりと、すごいだけでなく、いろいろ共感できる人だなと感じました。
「みんな水の中」文句なしにお勧めします。
引用
みんな水の中 医学書院
*1:
ハイデガーの文章は一般にはきわめて難解だと思われている。
『存在と時間』の英訳者であるジョン・マッカリーはその本の序文のなかで、ハイデガーがいかに並外れたやり方で諸々の語を使用し自分自身の用語を生み出し、新たな合成語を作り出すドイツ語の能力を乱用しているかを説明している。
ハイデガーの後期の文章はその初期の著作よりもさらに難解であり、信託めいた口調と暗号めいた簡潔な文体で書かれている。
その結果、彼は多くの者たちからいらだちと崇敬の入り混じった眼で見られるようになった。
彼が書き残したものは膨大な量にのぼり、論理学、科学哲学、歴史哲学、存在論、形而上学、言語、テクノロジー、詩、ギリシア哲学、そして数学といった広闊なテーマをカバーしている。その思想の深遠さにもかかわらず、彼の影響は広範に及んでいる。
彼は自らを、文明を救済する使命を持った哲学者と見なしていた。
引用
哲学思想の50人 青土社
*2:
アーレントは、妻と2人の子をもつハイデガーの『愛人』だったのです。
不倫とはいえ愛した男が、自分の民族を排除すべく「ハイル!ヒトラー!」と叫んでいた姿にアーレントはひどく心を痛めたようです。