伊豆の踊子の内幕を川端康成が語る
一生温泉場から温泉場へ渡り歩いて暮したいと思っている。それはまたからだの強くない私に長命を保たせることになるかもしれないし。
1918年(大正七年)川端康成19歳
10月末、初めて伊豆に旅し、旅芸人の一行と道づれになる。この伊豆旅行の体験から、「湯ヶ島での思い出」1922年 (大正十一年) が書かれ、それが後の「伊豆の踊子」1926年 (大正十五年) のもととなった。以後約10年間、毎年のように湯ヶ島温泉の湯本館へ行き、一年の大半をそこで過ごすこともあった。
非常/寒風/雪国抄 年譜より
今回は、伊豆の踊子の内幕を川端康成自らが語る、「伊豆の旅」と題された、アンソロジーを紹介します。
湯ヶ島温泉
伊豆の温泉はたいてい知っている。山の湯としては湯ヶ島が一番いいと思う。
私は温泉にひたるのが何よりの楽しみだ。一生温泉場から温泉場へ渡り歩いて暮したいと思っている。それはまたからだの強くない私に長命を保たせることになるかもしれないし。
湯ヶ島も長命者が多いそうだ。
私はこの地へ七年前から、毎年二度か三度は欠かさず来る。大正十三年は殆ど半年この地で送った。
七年前、一高生の私が初めてこの地に来た夜、美しい旅の踊子がこの宿へ踊りに来た。
翌る日、天城峠の茶屋でその踊子に会った。そして南伊豆を下田まで一週間程、旅芸人の道づれにしてもらって旅をした。
その年踊子は十四だった。小説にもならない程幼い話である。踊子は伊豆大島の波浮(はぶ)の港の者である。
(大正十四年三月「文藝春秋」)
南伊豆行
十二月三十一日
「伊豆の踊子」の続編を書くにも、下田方面を見ておいた方がいい。二十分ばかりの間に、そそくさと準備して、一時過ぎの下田行定期乗合自動車に乗る。天城の山道を流星のように走る。
峠のトンネルに入る。その北口に茶店は見えない。
「伊豆の踊子」に書いた茶店だ。婆さんと中風の爺さんがいた茶店だ。あの家も無くなってしまったか、爺さんも死んだのか、なぞと思う。自分は八年振りで天城を越えるのだ。
トンネルを南に出ると限界開ける。つづれ折の道が模型図のように見下せる。遠い山波の線に沿うて南の空くっきりと明るし。心躍る。この風景はすっかり忘れてしまっているので、新しい感じだ。南に重った山々が一重一重薄くなって、海の空が近づく風強し。セルロイドの窓激しく鳴る。
湯ヶ野に駐車する。
湯ヶ野は春の火事で村が半分焼けた。八年前踊子達が泊っていた木賃宿は、今の自動車停車場のあたりらしい。木の香匂う新築立並び、昔のその宿見出す由なし。尿(しと)する程の間休みて出発。
湯ヶ野を出外れ、再び山に入れば、左に海見ゆ。下川津の浜なり。相模灘なり。沖に伊豆大島裾を霞に消して大いなる夢の如くに浮ぶ。またトンネルを通る。
一月二日
湯ヶ野の福田屋は立派に改築されて八年前の面影を止めず。
襖を切抜き敷居より電燈を下げて二室兼用とせし頃の藁屋根なぞ昔の夢なり。
宿の主人は見覚えあり、旅芸人風情に飯を出すのは勿体ないと忠言した婆さんは、既にこの世を去りたる由。「伊豆の踊子」に書いた湯ヶ野は間違っている点二三あり。
料理番に聞けば、矢張り天城北口の茶屋は店も無くなり、中風の爺さんは死に、婆さんは修善寺近くの峠にいる由。
湯ヶ島程山深く清らかに美しき地は伊豆温泉場にはなし。
(大正十五年二月「文藝時代」)
「伊豆の踊子」の装幀その他
「感情装飾」と同じく、「伊豆の踊子」も装幀を吉田謙吉君に頼んだ。すると吉田君はわざわざ伊豆の湯ヶ島温泉まで来てくれると言うのである。装幀の材料を集めに長途七時間の山奥へ画家が来てくれるなんて実に珍しいことだ。それまでにして伊豆の感じで化粧してくれたのが「伊豆の踊子」の本。
さて出来上った本を見ると、やっぱり吉田君に来て貰っただけのことはあった。「伊豆の踊子」は湯ヶ島温泉の着物を着ている。これはあれで、あれはこれだ、私達は装幀の絵の中のいろんな物と実物とを一々思い合せて騒ぎ立てた。こんないい私の湯本館生活の記念品がまたとあろうか。
私の湯本館は長い。小説「伊豆の踊子」の中の私は二十で一高の学生である。九年前である。例えば「伊豆の踊子」の箱の右の方に描かれてニッケルの歯磨入れは、登志ちゃんと言う宿の女の子の持物だそうだ。その子は今度尋常四年になったのだが、私が初めて来た時は二つか三つ、梯子段をよっちらよっちら這い上がって二階へなかなか上がれなかったのを見覚えている。
十年ばかりの間、私が湯ケ島へ来なかった年はない。
殊にこの二三年は伊豆の人間と言ってもいい程である。
一昨年の初夏から昨年の四月まではずうっと滞在し、今また春が回って来たと言うのに去年の秋から相変らず湯本館住いである。
私の第一第二創作集中に就て言っても、「感情装飾」の掌の小説三十五のうち三十篇、「伊豆の踊子」の十篇のうち四篇を湯本館で書いた。
修善寺駅へ下りるともう見知りの顔がある。湯ヶ島や吉奈の顔なじみは数え切れない。去年の春、私が引上げる時宿のおばあさんは一人息子を遠い旅にやるようだと涙を流した。しかし私は秋にまた帰って来た。
そして私はこの宿でどれだけ多くの人々に心親しく触れたことであろう。
本の箱の表から裏へ廻っている模様は、部屋の欄間である。この欄間は宿の一号と二号との部屋の間にある。その部屋の障子を明けると下は渓流。
右端の下の絵は湯槽、左端の筧の下の絵は水槽。こんな湯槽と水槽は湯ヶ島に沢山ある。
表紙裏の四角いものは蓄水槽(タンク)とも言うべきだろうか。遠くから引いた水を仲次して多くの家の筧に分けたり濾過したりする木の桶である。
タンクの下、水か雲かの中に浮んでいるのが、「伊豆の踊子」の踊子の赤い櫛。
表紙の下のぶらんこは哀れにも古びて、湯本館の裏の川中島にある。綱を握っているのは誰の手か。実にいろんな人がこのぶらんこに乗るのを私は見た。このささやかなものにすら、私には思い出深い絵巻物である。遙々私を訪ねて来た女は、夕暮になると、このぶらんこを軋ませて、私を寂しがらせたものだ。関口さんは九つになるお嬢さんを乗せてぶらんこを描いた。
左下の仮橋は湯本館から西平の外れまで松崎街道を下って小路を左に折れると、狩野川にかかっている。
狩野川は「魔の狩野川」という渾名がある。雨が多いとどっと荒れて橋を流す。だから見給え、この仮橋の板には針金が附いているではないか。この針金を頼りに橋板は水のまにまに身を流そうと用意しているのである。
橋は山へ通じている。また吉奈温泉への近路である。鮎釣りに球撞きに碁打ちに私は何回この橋を渡ったことか。夏になれば橋の上から鮎釣る人もある。
扉の絵は内湯の古びた鏡である。歯ブラシなぞの並んだ棚の横にある。この鏡は絶えず湯気で曇り、数知れぬ男女の裸体を歪めて写しながら、私よりも古くから湯ヶ島にいる。
私の湯ヶ島も余りに長きに過ぎた。新しい土地へ行こう。
そして、今夜初めて谷川に河鹿が鳴いた。やがて石楠花の花開かん。
(昭和二年五月「文藝時代」)
伊豆の印象
私は長くいたせいか、「伊豆」と言う言葉に幻影を抱かなくなった。
しかし、あちらこちらを旅行した人が、やっぱり伊豆がいいと伊豆へ来るのによく会うところからみると、伊豆はいいのだろう。
そしてそんな人や伊豆を歩き廻った人は大抵やっぱり天城の北の麓がいいと、私と同じことを言う。
旅をしていて早熟な娘の恋を見る程感情的なことはない。
二三年前徴兵検査のついでに紀伊へ旅した時、安珍清姫の道成寺のある御坊で捕まって、私と同じ自動車で田辺の港へつれもどされた駈落者の娘は十五であった。
この間湯ヶ島の宿に男とこもっていた娘も十五だった。
毎晩きまって八時から寝るのである。黄色い三尺帯をしめていた。宿のおばあさんは可哀想に可哀想にと痛痛しがっていた。
夜の二時頃に私が谷川に臨んだ湯へ下りて行くと、悲しげに疲れた眼をして男とじっと身を沈めているのである。
何か怪奇的な気持さえ感じる。
彼女の子供じみた胸で乳房が忙しい発育を命ぜられて驚いているのである。
(昭和二年六月「文藝春秋」)
伊豆温泉記
夜の大雨が美しく晴れ上がった南伊豆の小春日和の朝だ。山川は土色の激しさに溢れている。
宿屋の内湯にいる私を川向こうの村湯から見つけて、旅芸人の娘が裸のまま川岸へ走り出し両手を高く伸しながら、何か叫んでいる。その体を日の光が白く染めている。
——湯ヶ野温泉のことであった。
(昭和四年二月「改造」)
文庫新版によせて 川端香男里
川端康成が初めて伊豆を訪れたのは、一高生になって一年後、大正七年のことだった。美しい旅の踊子と出会って、旅芸人の道づれにしてもらって下田まで旅をする。
その踊子は十四歳。ふつうだったら小説の種にもならない幼い少女の話である。
大正十四年には湯ヶ島で一年の過半を過ごすほど通いつめた。「湯本館」の女将・安藤かねにわが子同然に可愛がられたのだ。
伊豆にこれほどの執着をもった理由として、川端家が北条泰時とつながりがあるという意識が挙げられ、その意識が北条ゆかりの地伊豆へ向かわせたとする説があるが、康成自身は一笑に付したことであろう。
もっと重要な動機がある。それは温泉の存在である。
「一生温泉場から温泉場へ渡り歩いて暮したいと思っている。それはまたからだの強くない私に長命を保たせることになるかもしれないし。」
昭和四、五年ごろ作家を相手にしたアンケートが流行ったことがあるが、川端康成は皮肉っぽくそれに応えている。
「私の小説の大半は旅先で書いたものだ。風景は私に創作のヒントを与へるばかりでなく、気分の統一を与へる。宿屋の一室に坐ると一切を忘れて、空想に新鮮な力が湧く。一人旅はあらゆる点で、私の創作の家である。」
「自分の家は建てたくない代りに、月のうち十日は旅にゐたいと思ひます。」
「仕事は一切旅先でしたいと思ひます。」
三十歳の川端の姿勢は基本的にその後も変わらなかった。
(かわばたかおり/公益財団法人川端康成記念会 理事長)
それじゃあまたね。
引用
伊豆の旅 中公文庫
非常/寒風/雪国抄 講談社文芸文庫