物語の構成を見抜いて演技に応用
悪の理論
どちらの作品も構成は同じでした。
【目次】
両作品の骨子
1.どちらの作品の主人公も、世の中に懐疑的な考えを持っている。
2.主人公の前に、天使と悪魔が現れ、主人公を導こうとする。
3.しかし主人公は、そもそも社会のルールに疑問を持っているので、天使の理論より、悪魔の意見を受け入れてしまい、破滅の道を進んでいく。
藤子不二雄Fとの共通点
藤子不二雄F先生は「ドラえもん」を、小学館発行の小学1年生から6年生までの月刊誌に〝同時に〟連載していました。
つまり、小学1年生にも理解できるのび太君と、
少し子供から大人になった、小学6年生に受け入れられるのび太君を、同時に描き分けていたんです。
金閣寺の悪魔・柏木と、午後の曳航の悪魔・首領にも同じものが見受けられました。
悪の理論を語る人物
金閣寺の悪魔・柏木は、大学生です。
大学生という設定ですから、彼の語る悪の理論は、とてもおもしろく、主人公が惹きつけられてしまったのも分かります。
一方、午後の曳航の悪魔・首領は、13歳という設定です。
首領の理論は、いかにも子供っぽく、幼さが目立つ内容で、
首領と同じ年齢である中学生の登(主人公)たちには魅力的な理論に思えるのかも知れませんが、
大人であるわたしを納得させる内容では到底ありませんでした。
でも、それでいいんです。
大学生と13歳の子供が、同レベルの理論を語っていたら、いかにも不自然だからです。
三島由紀夫は、のび太君の〝成長〟を描き分けた藤子不二雄Fと同じことをしていたんですね。
「金閣寺」が発表されたのは、1956年。
「午後の曳航」は、1963年に発表されました。
午後の曳航のほうが、7年も後です。
つまり「午後の曳航」首領の〝悪の理論〟も、その気になれば「金閣寺」柏木と同レベルの水準の内容を語らせようとすれば出来たわけで
そうしなかったのは「年齢を考慮」した証左であると考えられるのですね。
天使の理論
午後の曳航の天使は、主人公・登の新しい父親になる、海の男・航海士の塚崎竜二です。
未亡人である母親と、竜二の情事を盗み見ていた主人公・登に対する竜二のはじめての父親としての決断は、とても寛大で、納得できる内容でした。
実は、午後の曳航で一番感銘を受けたのは、ここの竜二が登に説明する内容で、
頭ごなしに𠮟りつけるのが当たり前だった昭和の父親ではまったくない、21世紀の現代でも立派に通用する竜二の理論には正直おどろきました。
しかし、社会を斜めに見ている主人公の登には、「この世には殴ること以上に悪いことがある、と首領が言っていたのは本当だ」と、
竜二の天使の理論は、登にとってまったくの逆効果となり、
「金閣寺」の主人公と、同じ道を歩んでいくきっかけになってしまったのですね。
因(ちな)みに「金閣寺」の天使は、寺の修行仲間・鶴川です。
演技に応用しよう
こうした「作品の構成」が分かるようになれば、
「ここの演技は、あの作品を参考にしよう」という、先輩たちの演技から学ぶ行為が、
「なんでその演技を選んだのたしかにセリフは同じだけど、作品のジャンルやセリフの意味や感情は全然違うじゃない…」
という〝頓珍漢な選び方〟ではなくなってきますよ。