新文章読本
私一人のせまい文章の信念を、読者に強制することも避けたい。
「文章とは、こうだ!」みたいに押し付けてないところが好感を持てます。
——川端康成いいですね。——
新文章読本 川端康成
小説の文章、文体は、小説が言葉を媒材(ばいざい)とする芸術である以上、小説の重要な構成の要素であろう。
芸術活動には、芸術創作と芸術受用の二つがある。
文芸に就(つい)てこれをみれば、作者の心理活動と、読者の心理活動がそれである。
芸術創作の活動は、表現に達することで完了し、芸術受用の活動は、その表現に達することによって開始される。
いわば表現は二つのものの連結点であり、二つのものの流れあう、一本の橋である。
創作家は表現することによって、はじめて自己の芸術活動を自己以外の人に認めさせることが出来、鑑賞家はその表現に接し得て、初めて芸術活動を起すことが出来る。
文学に於(おい)て表現が重要な意味を持つというのはこの理由からで、狭くいえば、表現即内容であり、芸術即表現とも言い得ようか。
表現を通じてより以外に作者の現わそうとした内容を知る道はない。
たとえば、自分のある作品について、その作者がこれは、いつ、いかなる芸術的意図をもって着手され、いかなる新しい手法によって何を表現したかを、くわしく説明したところで、
それはその作品を理解する上に多少の便宜になることがあっても、説明はあくまで、作品に表現されたことだけの説明でしかあり得ない。
その作品に表現されなかったことをいくら、立派な理論で書いたところで無関係である。
反対にどのように上手く説明したところで、その作品の表現した世界には及ばないかも知れぬ。
作家にとっても、読者にとっても、千万の説明よりも、その作品の表現が重要なわけである。
ただ注意すべきことは、一文芸作品の中の一字一句の選択と決定からはじまって、その完了に至るまでには、作家の複雑な心理過程があり、
また読者の側でも、一字一句の理解からはじまって、一篇の読了までには、当然一つの心理過程がある。
細かな「表現」に関する議論はさしひかえて、いまはただ、表現は、作家と読者との心理活動とを結ぶ唯一の点である。ということを繰りかえすにとどめておく。
芸術にとって表現が大切であるとは、すなわち小説にとって文章はその死命を制する重要な意義があるということで、
また小説は言葉の精髄を発揮することによって、芸術として成立するのである。
作家はこのために、古今東西、全生涯を言葉との格闘で終って来た。
言葉を活用し得なくては、作家は作家としての生命を失うのである。
ひらたくいえば、「作品の理解者が、どれだけ沢山いてくださるか…」ということだと思います。
「あたり前」といったらその通りなんですが、偉そうに威張って、書いてないところが、好感が持てます
川端康成すっごくいいです。
偉そうに書いてる文章って、けっこう目にしたりするんですよね・・・。
「新文章読本」文句なしにお勧めします.
言葉と文字の創造ほど、人類の創造物中での脅威は、他に例がないであろう。
宗教では「無言」の中にさまざまな意味を見る。
言葉と文字の発見(発明)によって、人類の精神と文化が無限に発達したということは言い得よう。
勿論、言葉は人間に個性を与えたが、同時に個性をうばった。
一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式は与えられたであろうが、文化を得た代りに、真実は失ったかも知れない。
文章は、小説の命であると同時に、文章はまた小説発展の束縛者でもある。
文章に練達せぬ限り、自由な表現は失われる一方、文章に屈服する限り、自ら発展の限界も生ずるかも知れない。
新しく小説を志す人々にとって、文章、言語はこの意味でも、永久に研究の対象であろう。
理解、平明、その二点と共に、更に「耳できいて解る文章」を、とさえ思うのである。
徒(いたず)らに新奇をてらうのではなくて、言葉はつねに生きているのだ。
新しい時代の新しい精神は、新しい文章によってしか表現されぬ。
私自身は、耳できいても解る文章に近づこうと、小さな努力はして来たつもりである。世界各国共通語の文芸の夢もみる。
世界各国等しい文章言語で、感動を共にする日はいつであろうか。
私は、自分の文章より人の文章を、
男性の文章より女性の文章を、
大人の文章より子供の文章を、つとめて多く読み、より多く愛して来た。
新しいもの・・・
生れ出ようとする若々しい可能・・・
それにふれることが、私のよろこびなのか。
小説を志す人にとって、文章は永遠の謎であり、永遠の宿題であろう。