ワークショップ 声優演技研究所 diary

「なんで演技のレッスンをしてるんですか?」 見学者からの質問です。 かわいい声を練習するのが声優のワークショップと思っていたのかな。実技も知識もどっちも大切!いろんなことを知って演技に役立てましょう。話のネタ・雑学にも。💛

忍者と黒船【ペリー来航】

ペリーの様子を探った「目付」(忍びの者)

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甲陽軍鑑*1などに、「目付」とは透波(すっぱ)*2のことであると明記し、彼らは敵の情報を探るべく、敵地の奥深くに潜航する命がけの任務を遂行する人々であるとされています。

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このような諜報活動を主任務とする「目付」は、近世においても存在していました。

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嘉永六年(1853)、「黒船」で浦賀(うらが)に来航し、日本を震撼(しんかん)させたアメリカ合衆国東インド隊司令長官マシュー・ペリーは、第一回の日本訪問と、翌嘉永七年の再訪問の模様を、『日本遠征記』に記録していました。

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その中で、ペリーは、出会った日本側の人物について、詳細な記述を残しています。(『ペリー提督日本遠征記』下、角川ソフィア文庫、125頁)

 

目付(忍びの者)の活動

日本の代表団はポーハタン号に乗り込んだ。この代表団は黒川嘉兵衛という高官〔浦賀奉行支配組頭〕と、前回と同じ二人の通訳、灰色の上着を着た三人の役人だった。

この三人は、目をたくみに使う者、すなわち日本語でいう目付であり、文字どおりに訳せば四方八方を見る人、言いかえれば、密偵あるいは諜報員らしかった。

 

また、『ペリー日本遠征随行記』(新異国叢書8、雄松堂書店)の四月十九日 水曜日(嘉永七年三月二十二日)条にも次のような記事がある。

 

通訳の達之助が今朝ふたたび来艦したが、昨日彼が引き受けたはずのことを何一つ実行していない。本当に頼み甲斐のない相手で、何か手に入れようと頼んでみても、骨惜しみばかりする。長官の嘉兵衛〔下田出役浦賀奉行支配組頭、黒川嘉兵衛〕と、もう一人の役人で彼のスパイと思われる中台信太郎がいっしょであった。

 

江戸幕府の目付の存在は著名であるが、彼らはアメリカ側の情報を探るために、日本側の交渉役の一員として、艦隊に乗り込んでいたのだった。

しかし、目付の役割とその活動内容が、「密偵」「諜報員」「スパイ」であると、アメリカの軍人は見抜いていた(中台信太郎は、当時大目付であった)。

情報を探る密偵、スパイとしての「目付」は、戦国の忍び以来の伝統であったことが確かめられるだろう。

引用
戦国の忍び 角川新書

f:id:seiyukenkyujo:20210802121642j:plainwww1.odn.ne.jp

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*1:

甲陽軍鑑」とは

甲陽軍鑑は、元和七年(1621)までには、現在見ることができる本編二十巻(全五十九品)、」末書二巻として成立した軍記物で、武田遺臣小幡勘兵衛景憲(おばたかんべえかげのり)が編集した。

その原書は、武田信玄・勝頼(かつより)重臣春日弾正忠虎綱(かすがだんじょうのじょうとらつな)【いわゆる高坂弾正信濃国海津城主、川中島の統括者】とされ、彼が天正(てんしょう)六年(1578)に死去すると、虎綱の甥(おい)春日惣二郎(惣次郎)、家来大蔵彦十郎が書き継ぎ、天正十三年に惣二郎は佐渡国佐和田(現在の佐渡市)でこれを完成させ、死去したという。

この春日遺著を、天正十四年、上杉景勝(かげかつ)家臣となっていた川中島衆の小幡光盛(みつもり)が入手し、それが彼の甥景憲に伝来したと推定されている。

甲陽軍鑑は、その内容と信憑性をめぐって、今も議論が続いているが酒井憲二氏の研究により、使用されている言語や文法が、室町時代のもので、近世初期に仮託して使用できるものではないことや、甲信地方の方言や庶民が使用するげれつ言葉などが多用されていることが明確となり、再評価されるようになってきた。

*2:忍者の別称