フランケンから学ぶ教育論
生徒が「やる気」になってくれる言葉とは
SF小説の古典「フランケンシュタイン」から抜粋させていただきます。
クレンペ教授の場合
クレンペ教授はわたしをじっと見つめて「本当かね?」と言いました。「本当にそんなくだらないことを学んできたというのかね?」
そのとおりだとわたしは答えました。すると教授は熱っぽい口調でこう続けたのです。
「きみが今、挙げた本を読むのに使った時間は、一分どころか一秒に至るまで、あたら浪費されたことになる。
すでに論破された理論と役にも立たぬ名前を山ほど覚え込んで、己の記憶力に負担をかけただけではないか。
いやはや、いったい全体、どんな僻地(へきち)に住んでいたんだね?きみががつがつと吞(の)み込んできたその手の戯言(ざれごと)は、千年前の時代遅れの代物(しろもの)で、古びているばかりでなく黴(かび)だらけだということを?文明の進んだこの科学の時代に、よもやアルベルトゥス・マグヌスだのパラケルススの弟子にお目にかかろうとは!まったく夢にも思わなかったね。
こう言ってはなんだが、きみ、きみの学問は初めからやりなおさなくては駄目だ」
こんなこと言う教授はサイテーだと思います。好きになれません。
ヴァルトマン教授の場合
ヴァルトマン教授は熱心に耳を傾け、コルネリウス・アグリッパやパラケルススの名前が出ると、笑みを浮かべはしたものの、クレンペ教授のように人を小馬鹿(こばか)にしたようなところは微塵(みじん)もなく、こんなふうに言ったのです。
「そうした人たちの飽くなき情熱があったればこそ、現代の科学者たちがよって立つ知識の基礎が築かれたわけですからね、そういう意味では感謝すべきなのです。
事実を明らかにするという部分では、彼らの果たした役割は大きいのです。
天才の努力というものは、たとえその向かう方向が誤っていたとしても、突き詰めていけばまずまちがいなく、人類にとって実質的な利益をもたらすものなのですよ」
ヴァルトマン教授のことばには、いささかの慢心も衒(てら)いもありませんでした。わたしはひたすら耳を傾け、じっと聞き入りました。そして、先生のお話をうかがって近代科学に対する偏見が消えました、と伝えたのです。
こういう教え方はいいですね。好感が持てます。
そしてこのヴァルトマン教授の考え方は
アリストテレスによる二元的宇宙像
アルキメデスの風呂桶とユーレカ
プトレマイオスの天動説
と続く、天文学と物理学の歴史の捉え方と同じです。
その結果・・・
この日から、わたしにとっては自然科学、なかでも広義で謂(い)うところの化学が、唯一に近いほどの関心事となりました。その分野に関して現代の研究者が著(あら)わした、優れた天分と見識に満ちた書物を、熱心に読みました。
講義にも出席し、学内の科学者たちにも面識を得るようになり、そうなってみるとあのクレンペ教授も健全な理知と本物の学識を備えた人物だということがわかりました。
確かに、どうにも好きになれない面相だし、その振る舞いも決して好感の持てるものではないものの、だからといって研究者としての値打ちが下がるものではありません。
いっぽう、ヴァルトマン教授には、真の友人を見いだしたと言えましょう。
温和な人柄は決して独断に陥ることがなく、指導ぶりは率直で好意にあふれ、知識をひけらかすような態度はこれっぽっちも見せません。
わたしが知識の道に入っていきやすいよう、さまざまな工夫を凝らして地均(じなら)しをして、きわめつけの難問もわたしが理解できるよう、明快に、かつ丁寧に説明してくれます。
最初はふらふらしておぼつかなかったわたしの足取りも、歩み続けるうちに力を得て、確かなものとなり、そうなるとさらに熱心に研究に取り組むようになるもので、研究室に閉じこもっているうちに、星の瞬(またた)きがいつしか朝の光に消えていたことも何度もありました。
そこまで根を詰めて打ち込んだのです、進歩が速かったことは申し上げるまでもありますまい。実際のところ、わたしの熱心さは学生たちの脅威の的であり、進歩のほどは教授たちが瞠目(どうもく)するほどでした。
まさか「フランケンシュタイン」の小説から教育論が学べるとは思ってもいませんでした。
「フランケンシュタイン」は、今から200年も前、1818年に発表された作品です。*1 そしてこの教育論は、現在でも立派に通用することに驚かされます。
アンテナを張っていろんなものを眺めていると、意外なところから思いもよらなかった知識を得ることがあるんですね。
参考文献
フランケンシュタイン 新潮文庫
*1:
今日出回っている 「フランケンシュタイン」 の小説は、1831年の改訂版です。