櫻の樹の下には
桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
公園の砂場には地雷が埋まっている!
ネコ型地雷
櫻の樹の下には と 桜の森の満開の下
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている」で始まる、梶井基次郎の「櫻の樹の下には」は、インターネットの図書館 青空文庫 で誰でも【無料】で読めますよ。
「人さらいに子どもをさらわれた母親が、桜の花の満開の下で狂い死にして花びらに埋まってしまう」坂口 安吾の「桜の森の満開の下」も、青空文庫で無料で読めます。
桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子(だんご)をたべて浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖(おそろ)しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。
たしかに妖(あや)しい文学の魔力に満ちあふれた作品ですね。
こうして読み解け!
昔話の特徴に【痛さは描写しない】という大原則がある。*1
だから残酷な描写があっても昔話は怖く感じないんだ。【注】ただし近年改作された、やたら残酷性を強調した昔話はべつだぞ。
実は、この作品もその法則を使っていると考えられる。
「桜の森の満開の下」に人を殺す場面はふんだんにあるが、「被害者があまりの痛みに転げまわって苦しんだ」みたいな描写はいっさいない。
また被害者の視点からの「殺される恐怖にふるえる、涙が止まらない」などという感情描写もまったくない。
そこが残酷さだけがウリの猟奇小説と、坂口安吾の文学性との違いだ。
心の中の葛藤が、緻密(ちみつ)に描かれているのは、主人公の山賊だ。
反対に、女は「首遊び」をするが、なぜそんなことをするのか、なんで楽しいのか、まったくの謎だ。女の【心の闇】にはいっさいふれていない。
だから首遊びの場面は、残酷だが怖さはないし不快にもならない。
そういう視点をもって読んでみろ。文学を読み解くとはそういうことだ。
視点がふえると、見えるものがまったく変わってくるよ。
参考文献
ヨーロッパの昔話その形と本質 岩波文庫
働くお父さんの昔話入門 日本経済新聞社
*1:
女主人公の手や腕が切りとられたばあい、または馬が狼に脚を喰いちぎられたばあい、そういうばあいにも血が流れるわけではないし、ほんとうの意味での外傷ができるわけでもない。
すなわち三本脚の馬も全然脚をひきずったりしないで四本脚の馬とおなじ速度で走る。
「七羽のからす」というグリム童話[25番]ではガラス山へやってきた妹のことが次のように書かれている。
「さてどうやったらいいだろう?その子はお兄さんたちを救い出したかった。しかもガラス山の鍵はもっていない。この心やさしい妹はナイフをとりだして自分のかわいい指を一本切りおとした。そしてその指を門にさしこんでうまいぐあいに門を開けた。その子が入っていくと、ひとりのこびとが出迎えてくれた」。
――というわけで肉体的あるいは精神的苦痛を暗示するようなことばはひとつもない。
ドイツのべつな昔話にもおなじようなことがある。
「このピンチに若者は指輪をすぐはずそうとしたが、もう抜けなかった。そこで彼はすばやくナイフをとりだし指輪を指もろとも切りおとして、近くにあった大きな池に投げこんだ。それから彼は、その池のまわりをぐるぐる走りまわりながら大声でどなった。「ぼくはここにいるぞ!ぼくはここにいるぞ!」」。
悪者がこらしめられて灼熱の靴をはいて踊らなければならないばあいにも、あるいは釘をうちつけた樽につめられて、山からころがり落とされるばあいにも、苦しいうめき声は聞こえてこない。
ヨーロッパの昔話その形と本質 岩波文庫より