芥川龍之介 幻想文学
妙な話 芥川龍之介
千枝子の夫は第一次世界大戦中、地中海方面へ派遣された将校でした。
千枝子は結婚後まだ半年もしないうちに夫と別れてしまい、一週間に一度は必ず来ていた夫の手紙もぱったり来なくなってしまったのです。
ちょうどその時分のこと、千枝子の乗った電車が中央停車場に入ると、入り口にいた 見知らぬ赤帽の男が、「だんな様はお変わりございませんか。」とあいさつをしたのです。
妙なことに、千枝子はそう云う赤帽の問いを、別に妙とも思わず「ありがとう。ただこの頃はさっぱりお便りが来ないの。」
では私がだんな様にお目にかかって参りましょう。
お目にかかるといっても、夫は遠い地中海にいる。が、問い返そうと思う内に、赤帽は人ごみの中に隠れてしまい、いくら探しても、その赤帽の姿は見当たりません。
千枝子は傘もささずに、大降りの雨を浴びながら、停車場を逃げ出しました。
その時、風邪を引いたのでしょう。翌日から三日ばかり高い熱が続いて譫言(うわごと)ばかり言っていました。
風邪がすっかり治っても千枝子は停車場に近寄りませんでした。
赤帽の男が怖かったのです。
そんな折、夫の同僚がアメリカから二年ぶりに帰ってくることになり、千枝子はそれを出迎えるため、しばらくぶりに停車場へ赴(おもむ)きました。
すると誰か後ろから「だんな様は右の腕に、おケガをなさっていらっしゃるようです。お手紙が来ないのはそのためです。奥様、だんな様は来月中に、お帰りになるそうですよ。」
千枝子はふりむいて見ましたが、後ろには出迎えの男女のほかに赤帽は見えません。
しかし後ろにはいないにしても、前には赤帽が二人ばかり、自動車に荷物を移していました。———その一人がどう思ったか、こちらを見返りながら、にやりと笑ってみせたのです。
千枝子はそれを見て、まわりの人にもわかるほど、顔色が変わってしまいました。
その後ひと月ばかりして、本当に夫が帰ってきました。右の腕を負傷していたために手紙が書けなかったというのも事実でした。
そして驚くことには三度目の妙な話が・・・。
この「赤帽の男」は不思議な男ではありますが、悪いことはしていません。だけど気味悪がられてしまいます。
たしかに気味悪く思われてしまうのは、ある意味あたりまえかもしれません。ですが、
この男が、街角の占い師だったら超常現象をうたい文句にする団体の教祖様だったら気味が悪いと思う人ばかりではなくなるでしょう、むしろ・・・。
そんなことを考えさせられた小説でした。
大正文学を代表する芥川龍之介には「二つの手紙」(大正六年)「魔術」(大正九年)「影」(大正九年)「アグニの神」(大正十年)などの幻想小説が知られているよ。
参考文献
夢見る部屋 新潮文庫