新文章読本2
新文章読本 川端康成
本来国語は頗(すこぶ)る語彙(ごい)に乏しく、それを補って今日の国語を作りあげた外国語の恩恵に対して、私は深く首を垂れる。
が、国語の語彙の乏しさは、また一面、無口、謙譲の国民性の反映である。
雄弁は日本においては、古来諸外国の場合のように、人間の偉大さの条件ではなかった。
歴史上雄弁によって名を残した人も見当たらず、逆に雄弁家は「口舌の徒」としていやしめられていたようである。
日本語もまた、そうした国民性を反映して、簡素の一方余情に向って発展して来たのではあるまいか。
日本語のニュアンスはまたそこにあったようだ。
日本語の従来の長所は説明であるよりも、むしろ象徴であった。
新しい文章は、要するに現代の国語との血戦に出発しよう。
そしていつの時代に於(お)いてもそうであったように、外国語との結びつきに微妙な危険をはらむことであろう。
しかしながら、危険ありとみて遠ざかれば、新文章はついに生まれることはあるまい。
なるほどなあ・・・。日本人も時代によって変わってきてるんですね。
考えてみれば「ドカベン」の主人公・山田太郎君は〝不言実行型〟で寡黙な男ですからね。
わたしは、上手に説明してくれる、頭脳明晰な人に憧れますが、知らず知らず、日本も変って来てるんですね。
眼で文字を読まないでも、耳で聞いただけで意味の分る文章、
または一音も柔げずにローマ字にそのまま書き移すことのできる文章・・・
くりかえしていえば、私はそこに新文章の夢を描くのである。
本稿の趣旨もまた、堂々たる文章の学究的論文にあるのではなく、一作家の文章私感である。
たとえこの稿に百千の誤謬、欠点あるも、若し一つ読者の文章修業に益することあれば、私は以てよしとする。
処女作の文章は可能性を持つからであろうか。こみあげる何かを、切なくうたいあげているからであろうか。
その意味からも、私は児童の綴方(つづりかた)も好んで読む。
稚(いとけな)い文章であろうとも、そこには文章のうぶな魂が生きている。
文章の秘密は、技巧よりも情熱、姿よりも心といえるのであろう。
単に文章のみならず、多くの作家はその生涯、処女作以外の傑作を書き得ないようである。
処女作が頂点で、あとはそのバリエーションである場合が実に多い。
いずれにもせよ、生きて流れる文章は、昨日から明日につづくようで、多くの作家はその一時期に己の名を刻むのである。
誰が誰をつぎ、誰から誰に空白時代をとびこすか。
文章の歴史のそうした謎の解決は、私は読者にまかせるべきであると信じる。