事実と意見と読解力
事実と意見
この感覚のにぶい人はたやすくデマにまどわされる。
【内容】
事実と意見とを異質のものとして感じわける感覚をこどもの時から心の奥底に培っておくことが何より大切である。
レポート・論文の類を書くときに第一に必要な心得は、この二つをはっきり別ものとして取り扱うことだ。
欧米では、事実と意見 (自分または他人の考え) とを峻別する訓練が言語技術教育の礎石(そせき)とされているのである。
アメリカ・ヒューストンの小学校5年生用の教科書より
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ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。
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ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。
どちらの文が事実の記述か、もう一つの文に述べてあるのはどんな意見か、事実と意見はどうちがうのか。
◎事実とは証拠をあげて裏づけすることのできるものである。
◎意見というのは何事かについてある人が下す判断である。ほかの人はその判断に同意するかもしれないし、同意しないかもしれない。
小学校4年生用の教科書
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この背の高いアメリカ人は世界でいちばん機敏な男でした。
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「ハワハニの新しい学校」というのはあるお話の題です。
どちらが事実の記述ですか。事実とは何でしょう。事実と意見とはどうちがいますか。事実と意見の例をあげてごらんなさい。
次に書いてあるのはどれが事実でどれが意見ですか。
1.私たちアメリカ人はほかの国の人より機敏です。
2.このお話によると、ジョゼフは小屋に住んでいました。
3.私たちが読んだのはすばらしいお話でした。
4.この島の土着民は争いを好まぬおとなしい人たちでした。
5.彼らの国の言葉はおかしな言葉です。
ある種の見解、たとえば上記の1と5は問題を起こすことがあります。なぜでしょう。
読者は、問1.3.5.は迷わず「意見」と答えられるだろう。
問2は?そのお話の本を見ればたしかにそう書いてあるのだから、これは「事実」だ。それでは問4は?これは読者におまかせしよう。
頁15-17
アメリカでは小学生のころから、「事実と意見」の違いについて考えさせているのですね。
それでは、日本ではどうなのでしょう?
日本の場合では…
はじめに<考え(意見)>として述べてあったことがいつの間にか<事実>として扱われていたり、議論の大切な前提の記述が落ちていたり、前後の脈絡がみだれていたりして、修正というよりむしろ書き直しに近くなる場合が多い。
一例をあげておこう。
- 大磯は、冬、東京より暖かいと信じられているが、私は、夜は東京より気温が下がるのではないかと思う。夜間、大磯のほうが低温になることにふしぎはない。暖房その他の熱源が少ないし、第一、東京にくらべてはるかに空気が澄んでいて、夜は地面から虚空に向かってどんどん熱が逃げていくからである。
この文章では、第1文で「私は、夜は東京より気温が下がるのではないかと思う」と筆者の<考え>として書かれていたことが、それを受けた第2文では「夜間、大磯のほうが低温になること」と事実あつかいになっている。
ここでは、第1文に述べてある<私>の考えが仮にあたっているとして、それに対して<私>の判断――ふしぎはない――を述べるのだから、次のように書かなければならないのである。
- 夜間、大磯のほうが低温になる「としても、それに」ふしぎはない。
この文章は随筆の一節だから、原文のままでも大してさしつかえはない。しかし、レポートや学術論文の中では、この種の<考え(意見)>と<事実>とのスリカエは許されない。その結果として不当な結論が導き出されかねないからだ。学問の世界では、事実と意見とは黒と白ほどちがうのである。
実はこの種の混同が日本人の論文にはしばしば見られるのだが、ほかの国からの投稿にはそういう例がまずない。国際学術誌の閲読者としての私の経験によると、非英語圏からの投稿には英語はひどいのがあるが、それは英語を直せばすむことで、論文の組み立てに手を入れなければならない例は稀なのである。
「どうして日本人だけが・・・」と思っていた私は、前述の米国の教科書を見て、目を見開く思いであった。こどもの時からの教育が全然ちがう!!――このとき受けた衝撃が尾を曳いて、いま私にこの書物を書かせていると言っても過言ではないのである。
同じ教科書の5年生用の巻の第8単元「書くこと」の見出しは次のようなものだ。
- 書くことの歴史 印象 ある有名な作家 文を結合すること レポートの書き方(主題のえらび方 図書館の利用 メモのつくり方 インタヴューの仕方 荒筋を立てる 文献の引用) ことばの使い方(動詞の過去形 いろいろな国のことば 立証できないことを言うとき) 新聞について(第1面 見出し どんなことがニュースになるか 書き出しの文 記事の書き方 社説) 総合問題 こんなこともやってみたら?
これは読む本ではなくて教室で使う教科書だから、意外なところに意外なトピックがならんでいるきらいがある。しかし、日本の小学校の過程で「書くこと」を教える<作文>とはまったく趣がちがうことは読みとれると思う。
コミュニケーションというのは、事実・状況・意見(考え)・心情(気持ち)などを他人に伝えることである。情報・意見・心情の伝達といってもいい。言葉によってこれらを伝えるのに必要な心得を示し、その方法を身につけさせるのが言語技術教育である。
もっとも、言語技術の対象のうち、心情の伝達に関しては従来の作文教育が成果をあげている。したがって問題は言葉によって事実や状況を正確につたえ、また自分の考えを整然と主張するための言語技術の教育・訓練だ――というのが私たちの認識であった。
頁17-22
たしかに事実と意見の見わけ方があやふやだと、デマに踊らされて大変なことになるかもしれないね。
そして事実と意見を見分けることは、文章の読み解き、ひいては「台本の読み解き」につながりますね。
いろいろなことに興味を持って、自分の成長に役立てていきましょう。
参考文献
レポートの組み立て方 筑摩書房
Voice actor laboratory 声優演技研究所
ガリレイの生涯と地球温暖化
「それでも地球は回っている」
ガリレオの友人サグレドは、「地動説を公言したら、火あぶりの刑になるぞ」と忠告します。
それに対してガリレオは
「証拠を見せればいい。ブルーノ(注)が10年前に火あぶりになったのは証拠がなかったからだ。証拠があれば信じるしかないだろう」と言いますが
木星のガリレオ四大衛星、その他の証拠を示しても信じてもらえなかった【もみ消された】のは、みなさんご存知の通りです。
そして現在、21世紀。
先日のG7サミットで「地球温暖化問題」などを議論したようですが
「温暖化などない」「因果関係は認められない」という、どこかの国の大統領や御用学者たちに気を使ったのか、なんかすっきりしない結末でした。
ガリレオの生きていたころとあまり変わってないような気がしてしまうのは、私だけでしょうか。
物語を「むかしのこと、架空のこと」と考えるんじゃなくて、現実と照らし合わせるなど、いろんな視点でながめることが役に近づくヒントになるよ。
そんなことを話しながら、本日は「オンディーヌ」などのレッスンを行いました。
1か月くらい前にやった、女同士のバトル場面を配役を変えてやってみたんですけど楽しいレッスンが出来たと思います。
本日もありがとうございました。それでは、また来週。
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【注】ジョルダーノ・ブルーノ。イタリア出身の哲学者。コペルニクスの地動説を擁護したため、1600年2月17日、イタリアのローマで火刑になりました。
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ちなみにガリレオもトスカーナ大公国(現在のイタリア)の天文学者です。劇中のサグレドとの会話は、1610年1月10日の出来事です。
P.S.
北極の氷は年々減少しています。
夏に減って冬に増える±ゼロなら、「寒暖差が大きくなっただけ」とも考えられますが、昔に比べて氷は減っているんです。
ガリレオの時代、教会が地動説を認めなかったのは「おカネ」が原因のひとつだといわれています。
神様や聖書が否定されて、キリスト教の信者がへってしまうと、信者からの献金もへってしまうと教会側は考えたのです。
現代の温暖化を否定している人たちも経済優先、つまりおカネを優先している人たちが多いような気がします。
「洪水は我れ亡き後に来たれ」
有名な言葉です。フランス王ルイ15世の愛人だったポンパドゥール侯爵夫人の言葉とされています。
世界が大変なことになったらどうするかって?知ったことじゃないわ。そんなのはいずれ将来のこと。その時はもうわたしなんかいないもん。「どうせ洪水が起きるなら、わたしがいなくなってから起きてちょうだい」先のことは考えない。自分がいる間さえ無事に乗り切れればいい。
そういう意味です。
わたしもお金は好きだけど、こういう考えかたは好きにはなれないな…。
ポンパドゥール夫人は1764年4月15日(42歳没)に死去しました。
ちなみに、マリー・アントワネットがフランス革命【1789年から99年】で断頭台の露と消えたのは(ギロチンで処刑)、1793年10月16日(37歳没)です。
ポンパドゥール夫人が死去してから25年後に革命が起こったわけで、ある意味願いが かなったとも言えそうですね。
現実ってそんなもん?
リラックスして金メダル
女子柔道と高校野球
素質がありながら伸び悩み、プレッシャーとは無縁の環境で花開いた、出口クリスタさん。
日刊スポーツの記事より抜粋させていただきます。
日本生まれ日本育ちの出口クリスタ(23=カナダ)が、初優勝を果たした。女子57キロ級決勝で、高校時代からのライバルで連覇を狙う芳田司(23)と対戦。延長の末に勝利し、父の母国にオリンピック(五輪)、世界選手権を通じて初の柔道金メダルをもたらした。
決勝の相手は、芳田だった。6年前の夏、松商学園高3年の高校総体決勝で敗れ、その後も何度も対戦してきた。初出場した昨年世界選手権では準決勝で敗れ「決勝でやりたい」と今大会に臨んだ。劣勢で指導もとられて入った延長。「体が勝手に動いた」という谷落としで技ありを奪い、最高の舞台で勝利を挙げた。
高1の時に高校総体52キロ級で優勝し「美少女柔道家」として騒がれた。高3の総体直後に東京五輪開催が決まり「出場したい」と思った。しかし、山梨学院大入学後は伸び悩み、芳田ら同階級のライバルとの差も広がった。東京五輪出場の夢も遠のいた。
17年1月、父の母国カナダ代表になることを決断。日本との柔道環境や考え方の違いにとまどった。「化粧にピアスで畳に上がる。ここまで違うのかと」。
しかし、結果的にこれがよかった。
「日本だと、勝たないといけないと思う。カナダは1回でも勝てば、すごいとほめられる。私には合っていた」。気持ちが楽になると成績も上がった。
「五輪に出るため」に選んだカナダで、チームを引っ張る存在。五輪柔道初の金メダルも期待される。「来年も司と決勝でやって、勝ちたい」。その瞳の先には、東京五輪がはっきりと見えている。
日本にいたときは歯が立たなかったライバルに、環境が変わったら勝った、というニュースですね。
カナダは、「オリンピック、世界選手権を通じて初の柔道金メダル」ですから、練習システムなど設備面では日本のほうが上だと思われます。
彼女が成長したのは、記事にもあるように気持ちの変化が大きかったのでしょうね。
高校野球でも・・・
高校野球の話になりますが、「いまの子はプレッシャーに弱くて、ピンチになるとみんな泣くんだよ。昔は歯を食いしばって耐(た)えたのに」という証言があります。
しかしその一方で、投手の球速は160キロとなり、甲子園大会のホームラン数はラッキーゾーンが撤去されたのに増えています。
ある高校野球の名将も、「昭和の時代に優勝した自分のチームも、いまの甲子園では3回戦まで勝てるかどうか」と述べています。
プレッシャーには弱くなったものの、全体的にはレベルアップしているんですね。
それをふまえて現在では、歯を食いしばって耐えるのではなく「ピンチの時こそ笑え」という指導が主流になりつつあるんです。
つまり、リラックス。
いろんなものにアンテナを張って、演技に応用して、成長に役立てましょう。
総合格闘家・須藤元気氏も「よく現役を引退すると強くなる人がいます。それは勝たないといけない重圧から解放されるから」と語っています。リラックス、大切ですね。
Voice actor laboratory 声優演技研究所
ブレヒトが好き
なぜっていいことが好きだから
ブレヒト演劇の登場人物は「みんなの役に立ちたい」と いいことをします。
ところがいいことをすればするほど不幸になってしまうのがブレヒト演劇の特徴です。
「セチュアンの善人」シェン・テは神様に見捨てられ、「屠殺場の聖ヨハンナ」は死んでしまい、「肝っ玉おっ母」の娘カトリンに至っては撃ち殺されてしまいます。
いいことをして幸せになるのは「コーカサスの白墨の輪」のグルシェくらい…。
みんなの幸せを願うと不幸になり、悪いことをすると幸せになる。
どうしてそうなるの?いいことをしちゃダメなの?悪いことをした方がいいの?
「いいことをした人が幸せになる」そんなあたりまえの世の中になるには、どうしたらいいのか、みんなで考えよう。
それがブレヒト演劇です。だから大好きです。
ブレヒト戯曲選集 第5巻 解説より
自由意思に基づいて自発的に善を行おうとする人々、ヨハンナ、カトリン、シェン・テ、グルシェなどがそれである。彼女らは、自発的な行動をはじめると、たちまち社会のしがらみにがんじがらめにされてしまう。善を行うことと生きていくことが、正面衝突をするような境遇に追い込まれていく。
作者としてのブレヒトは、同情の涙を全く惜しんでいるわけではない。
むしろ、社会の組織や制度の悪弊(あくへい)をえぐり出す巨視的(きょしてき)な立場から、人間そのものの中に巣食いがちな悪――怠惰(たいだ)・猜忌(さいき)・不正など――と取り組む立場に移って、善人たちを培養基(ばいようき)とし、悪の生態を微視的(びしてき)に観察しているのである。
そして、この善人と悪との対決の場合、人間の心に巣食い勝ちの悪そのものよりも、悪に対処する善人の心のもち方のほうに、より多くの描写の筆がついやされている。
この解説をわかりやすく表現してみたのが、最初の私のセリフです。以上、文章の読み解きかたでした。
Voice actor laboratory 声優演技研究所
キャラクター(性格)の演じ分けについて
演劇は、おもしろければいいんだと思います。
だけど何も知らないでおもしろく演じようとすればするほど、つまらなくなって、お客さんが引いてしまいます。
演技の基本をふまえて、おもしろく演じることが大切だと思いますよ。
今回は「キャラクターの性格は固定すべきかどうか」についてお話します。
チェーホフとストリンドベリ
「令嬢ジュリー」をなぜ従来の意味での性格を持たぬ人物として描いたか。
ストリンドベリはまず、従来性格と考えられていたものの不備を指摘する。
人間の精神活動は複雑である。劇作家としては、自己の人生観察、ひいては時代の良心に忠実であろうとすれば、どうしても、ある行為の動機がいかに複雑であるかを、そのままの形で表現せざるをえなくなる。
ところが観客は、たいてい、一番理解しやすい動機、己の判断をひけらかすのに一番都合のよい動機をえらぶにとどまるであろう。
そればかりでなく、社会の通念して性格と称されているものを考えてみると、持ちまえの性質を固辞する者、人生の特定の役割に適合する者、言いかえると、成長を止めた者が、往々にして性格をもった人間と見られ、
一方、発展の途上にある者、人生の潮流をのりきるのに帆づなをしっかりと固定せず、突風に遭えば針路を転じ、おさまれば方角を風上にむける者は、じつはすぐれた船乗りであり、自我をよりよく生かす道を必死になって捜し求めているにもかかわらず、無性格よばわりをされる。人間の生活を固定し単純化することが、性格をえがく所以(ゆえん)だとされているとしか思えない。
しかし、人生の複雑さは、そんなことでときほぐせるものではない。しかも現代は、知的好奇心・探求心の旺盛な時代である。
そこでストリンドベリは、登場人物のあたまのはたらきを、現実生活そのままに不規則にはたらかせた。
しかし、作者がこの点に力こぶを余り入れると、見る者に肩のこる思いをさせないともかぎらない。
そこで、モノローグやパントマイムやバレエの要素をとり入れて、気分的なゆとりがもてるように工夫する。
以上のような劇作家としての心くばりが、そのままチェーホフのものであることは明らかであろう。
ブレヒトは、ストリンドベリやチェーホフの戯曲を読むまえに、アルバイトの劇評家として、ドイツ古典劇や表現主義側の上演を見、当時の劇場経営の実態や観客の様相をさぐるかたわら、ひろく一般の社会現象を視野に収めつつ、いつしかストリンドベリやチェーホフの指示した道をあるいていたのであった。
「チェーホフとストリンドベリ」を読み解く
わかりやすく読み解いてみましょう。
「あの人って、こういうキャラだよね」と性格を固定したほうが、わかりやすい。
だけど人間ってそんなに簡単でわかりやすいのかな?
すぐれた人ほど風向きを読んで、人生の荒波を乗り越えているよね。
演劇のキャラも、性格を固定しないで演じたほうがいいんじゃない?
ストリンドベリは登場人物のあたまのはたらき、つまり性格や行動を固定しなかったしチェーホフも、そうしたよ。
ただあまりにも現実そのままだとお客さんもつまらないだろうから、バレエの要素【踊るというより、立ち居振る舞いを優雅に、きれいに、クールにみせるなどして】楽しくカッコよく演じようと言ってるんですね。
現代の演劇では、
1.「どちらにも正当性がある、世の中に答えは無数にある」という社会派の作品なのか、
2.「アンパンマン」や「水戸黄門」のように善と悪を分けて、わかりやすさを追求した作品なのかで、キャラの性格を固定するかどうかを変えているケースが目立ちますね。
演技の基本を知り、それに縛(しば)られて何もできなくなるのではなく、知っているからこそ、自由に楽しくおもしろく演じられる声優をめざそうね。
参考文献
Voice actor laboratory 声優演技研究所
成長するために
甲子園大会を見ていて感じました。
春から夏にかけて、球児は成長します。
その背景には、今の自分には何が足りなくて、成長するためにはどんな練習が必要か、という敗戦から学ぶ「分析」があったのだと思います。
もちろん負けたからって怒るのは問題外です。
負けから分析する
20年以上前の高校野球には「負けたら怒られる」というイメージがありました。最悪ですね。
それとは反対に「負けて満足」というイメージもありました。「人生に負けはつきもの、これで子供たちもいい勉強になっただろう」みたいな。
「人生に負けはつきもの」
「人生に負けはつきもの」それはたしかに、その通りだと思います。
しかし今後の人生に役立てるなら、満足しておしまいにするのではなく、負けから分析する方法を教えるのが本当の教育ではないでしょうか。
そもそも日本人は、失敗から学ぶことを苦手にしているように思えます。大人たちの社会を見ていると、特にそう思います。
大企業の不祥事の記者会見を見ていても、「不祥事が見つからないように、とにかく隠せ。バレたら取りあえず謝(あやま)っとけ」みたいな【ズルさ】を感じてしまいます。
その誤魔化(ごまか)そうとする心理の根底には「失敗したら責められる、怒られる」という怖さがあるんじゃないでしょうか。
その点、高校野球はいい方向に変わろうとしているように思えます。
だからこそ声優演技研究所では、いいものはどんどん見習って「失敗しても怒るのではなく、どうすればうまくいくのか考えて工夫する」レッスンを心がけています。
世の中のいろんなことを見て、聞いて、学びながら、演技や自分の成長につなげていきましょう。
高校野球の良さは、春から夏のわずかな期間で大きく成長する球児から「よし、自分も!」と勇気づけられるところですね。
学ぶの語源って、諸説あるんですけど「まねぶ」って言葉なんです。マネをすることに上達の秘訣があるのかもしれませんね。
今日はいつもほど暑さを感じないな。そう思って本日の東京の最高気温を調べてみたら
30.2度…。
これまでの暑さが異常だったんじゃよ。最近の夏は尋常(じんじょう)ではない。
そんななか集まってくれてありがとうございます。今日も楽しいレッスンが出来ました。それでは、またね。
Voice actor laboratory 声優演技研究所
役の気持ちがわかる方法。
ドラマのパターンは2つあります。
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ふつうのどこにでもいる人物【女子高生、会社員、その他】が、とんでもない事件に巻き込まれていく話。
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ふつうのなんでもない日常に、どこか問題を抱えた人物が紛(まぎ)れ込んでいる話。
変わるのは、日常か人物か
1.の場合は、登場人物は自分とあまり変わりませんので、「もしも自分が非日常的な事件(戦争・犯罪)に巻き込まれて、こんな状況になってしまったら、どう反応するだろう」と【自分ならどうする?】と考えていけば、ある程度は対処できます。
問題は2.です。
状況設定【物語の背景】は日常とほぼ同じ。
でも人物の役柄は、自分とは大きくかけ離れている場合は、自分ではなく【この人ならどうする?】と考えていく必要があります。
ヒントになりそうな本がありましたので紹介します。
あえてネット通販のリンクはしません。図書館で借りるか本屋さんで買おうね。
【内容】
「できない」と言えずに、状況を打開できず、「仕方がない」と状況を背負い込んでいく――
状況の打開はさらに困難になるが、それでも、考えても苦しいだけだからと、見ないふりをしつつ、やりすごそうとしていく。実はそういう弱さは、誰でも多かれ少なかれ抱えているものではないか。
虐待で子どもを死なせた親を、自分とは異なる冷酷さに満ちた人物のようにとらえる。あるいは、過労自死に追い込まれた者を、「嫌なら辞めればよかったのに」と見る。そうやって人は、「それは自分とは違う人のことだ」ととらえ、問題を切断しようとする。
しかし、では自分なら同じ状況で、適切に対処できただろうか。
もう少し身近な問題で考えてみよう。
バイト先から、なんとか土曜も入れないか、なんとか日曜も入れないか、としきりにLINEで連絡が来るので、それを断るのが心理的にしんどくて引き受けてしまうという学生。
給与の支払い額が不明瞭なのだけれど、辞めるとは怖くて言い出せず、続けるしかないと考える学生。
交際相手が支配的で心理的に追い込まれるのだが、別れたいと言い出すとどんな目にあうかわからないので、交際を続ける女性。
高圧的な上司にどなられるのだが、なんとか辞めずに働き続けないと生活が破綻すると考える男性。
そんな例は、実は身近にいくらでもあるのではないか。そしてまた自分も、同じように、何らかの困難を抱えつつ、それをやりすごしているのではないか。
そういう状況と、ネグレクト(育児放棄)で子どもを死なせてしまったり、自死に追い込まれたりすることとは、まったく切断された別のことではなく、ひとつの幅をもったグラデーションの中の、色合いの濃さの違いだけではないのか。そうだとすれば、それは、私にとっても、あなたにとっても、ほんとうは他人事ではないはずだ。
つまり、この人は自分とは違うから、と上辺(うわべ)だけ考えて終わりにするのではなく、「この人がこのような状況に追い込まれてしまったのは、どのような背景があるのか」と、もう一歩ふみこんで考えていくことが、役になりきり理解する第一歩だと思いますよ。
参考文献
呪いの言葉の解きかた 晶文社
Voice actor laboratory 声優演技研究所
P.S.
3.人物・日常のどちらも非現実的
これはあるでしょうね。SFファンタジーは言うに及ばず、リアルな戦争ものなどに登場する【少し精神に異常をきたしたキャラ】も当てはまると思います。
ただ「日常の定義」をどこにおくのか?という問題は出てきます。戦争(紛争)が日常、という国もあるでしょうし。
世界中すべての国や人々が、なんの心配もなく演技のことを考えていられる平和な状態が「日常」であってほしいです。
4.人物・日常どちらも現実と同じ
再現ドラマなど、ドキュメンタリータッチの作品が思い浮かびますが、ドキュメンタリーは「なにげない日常に、こんな問題が潜んでいた」という作品が多いですから、演技もさることながら、鋭い観察眼が要求されると思います。
アニメなどフィクション系の作品では、現実と同じに見えて、実は【ほんわか】してる。トラブルや事件を、ほんの少しオーバーに誇張して描いている、などが多いですから、現実そのままというのは、ちょっと思い当たりません…。