三人姉妹チェーホフ作
三人姉妹を読み解く
声優は文学作品に慣れ親しんだほうが有利です。劇団の公演養成所でのレッスンオーディションの課題などなど
ブレヒト大好きなわたしですが、今回はチェーホフ「三人姉妹」の一場面を日常と照らし合わせて読み解いてみたいと思います。
三人姉妹 第三幕
三人姉妹の第三幕でナターシャは、乳母の家政婦である80歳の老婆アンフィーサをクビにしようとします。
働けなくなったら「ポイ」はひどいです。
以下、三人姉妹のひとり、オーリガとのセリフのやり取りです。
第三幕
アンフィーサ
「(ぐったりして)ねえオーリャ、可愛いお嬢さん、わたしを追い出さないで下さいましよ!追い出さないで!」
オーリガ
「何を馬鹿なことを言うの、ばあや。誰がお前を追い出すものかね。」
アンフィーサ
「(オーリガの胸に、頭をあずけて)わたしのいとしい、大事なお嬢さん、わたしは働いておりますよ、精出しておりますよ。からだが弱ってくると、みんなして、出て行けがしに扱いなさる。このわたしに、なんの行き場がありましょう?なんの行き場が?八十でございますよ。数え年じゃ八十二ですもの・・・」
オーリガ
「お前、ちょっとお休み、ばあや。・・・疲れたろうね、可哀そうに。・・・(椅子に掛けさせる)ひと息おいれ、ねえお前。なんて青い顔をしてるの!」
ナターシャ登場
【中略】
ナターシャ
「(アンフィーサに向かって、冷ややかに)わたしの前で座ったりなんかして!お立ち!さっさと向こうへおいで!(アンフィーサ退場。間)どうしてあんた、あんな老いぼれを置いとくの、わからないわ!」
オーリガ
「(おどおどして)ごめんなさい、わたしにもわからないの・・・」
ナターシャ
「なんの役にも立ちゃしない、あんなのがいたって。あれは百姓の生まれだから、田舎にいるのが本当よ。・・・なんという、つけあがりようだろう!わたし、家の中をきちんとしときたいのよ!無駄な人間が家にいちゃいけないわ。」
中略します・・・
オーリガ
「あれは、もう三十年もうちにいるのよ。」
ナターシャ
「でも、今じゃもう働けないじゃないの!わたしがわからず屋なのか、あんたがわたしをわかってくれないのか、そのどっちかだわ、あの女は働き手としてはもうゼロで、ぐうぐう寝たり、坐りこんだりしてるだけよ。」
オーリガ
「じゃ、坐らせておいたらいいわ。」
ナターシャ
「(あきれたように)坐らせておけですって?だけどあの女は召使いなのよ。(涙ゴシで)わたし、あんたの気持ちわからない、オーリャ。わたしたち夫婦は、守っ子(もりっこ)も置いているし、新しい乳母も置いてるわ。おまけにこの家には、小間使いもおさんどんもいるんじゃないの・・・そのうえ、なんであんな老いぼれを置いとくことがあるの?一体なんのためなの?」
オーリガ
「今夜のうちに、わたし十年も老いこんでしまった。」
ナターシャ
「わたしたち、きっぱり話をつけておく必要があるわ、オーリャ。あんたは学校づとめ、わたしは家のつとめ。あんたの仕事は授業で、私の仕事は――家政だわ。だからわたしが召使いのことを口に出す以上、自分の言い分はちゃんと心得ていますよ。ちゃ・ん・と心得てね。・・・よし、あすにもあのくたばりぞこないの泥ぼう婆ァ、追んだしてやる・・・あの鬼ばばあめ!・・・この上お前に、じりじりさせられるのは御免だよ!まっぴらだよ!」
参考文献
いらなくなったら、ポイ。つまり「リストラ」です。
ここの場面は、現在の社会状況とよくにていますね。
2020年の日本では、オリンピック後の景気後退を見こして各企業が「早期退職」を募(つの)っています。リストラです。
ある大企業では、6000万円の退職金をはらって退職を促しています。
リストラを企業側の目線で考えると
「有能な社員に残ってもらい、そうじゃない社員にやめてもらうことで、企業のスリム化、業績アップを図りたい」だと思います。
そうならないとはいいません。
だけど、こんな考え方もできるのではないでしょうか。
どこにでも転職できる有能な社員にしてみれば、6000万円をもらって退職して、有利な条件で別の企業に再就職してもいいよね・・・。
そうなると、有能な社員が次々とやめていき、あまり能力のない再就職できる見込みのない社員ばかりが残って、会社が弱体化してしまう…という最悪なシナリオだって考えられます。
三人姉妹のナターシャの場合にしても、たとえ他に代わりの家政婦がいたとしても、いらなくなったらポイされることがわかれば、本気でナターシャにつくそうとは思わなくなるでしょう。
そしてこの家よりいい条件で雇ってくれるところがみつかったり、ナターシャがピンチになったりすれば、ナターシャを見捨てて、みんなさっさと逃げ出すでしょうね。
ワンチームの精神が崩れている?
昔の日本は「終身雇用」だった。だから会社があぶなくなると、社員全員一致団結して会社を守った。それが高度経済成長につながったんだ。今はそうじゃない。バラバラだ。
スポーツにたとえると、サッカーでも野球でも海外にはとんでもない選手がゴロゴロいる。そんな海外のチームに日本は団結して「ワンチーム」の精神で戦うのが勝利の秘訣だ。
しかし企業を見まわすと、日本の強みである団結力が失われてきているような気がするな。しかも優秀な人材は海外から高額な報酬でヘッドハンティングされている。ニュースを分析してみると、現在の日本はそんな感じだ。
文学作品を読み解くと、そんなことも見えてきます。だからこそリアルな演技をするためには、日常の観察が大切なんですね。
三人姉妹・解釈の移り変わり
三人姉妹の解釈は時代とともに変化したことで知られています。
初演のころは、「たとえ人間の生活がどんなにつらくとも、苦渋に満ちていても、生活のために生きていかねばならない。それが人生だ」という解釈でした。
・・・なんか苦しいです。
ですが今の解釈は違います。
『三人姉妹』の解釈は、今日ではだいたい定まっている。以前には、この戯曲は、三人姉妹の悲しい運命を描く暗い憂鬱(ゆううつ)な物語と考えられていた。
これは人間の美しい夢が、俗悪な、日常的な現実のなかで次第にしぼんで枯れていく話である。この意味において、戯曲の基調は暗い。
ところが、作者自身が戯曲の中に書いていることだが、このような暗い憂鬱な日々はこのままつづくはずはない、「今や時代は移って、われわれ皆の上に、どえらいうねりがせまりつつある」、こういう時代の認識、時代感覚のもとにこの戯曲が書かれたことに注目するならば――チェーホフは革命の到来をはっきりと予見していたわけではないが、――『三人姉妹』がただ三人姉妹の悲しい運命を描くためにのみ書かれたはずはないのである。
このことは、戯曲のそこここに語られる、人類の明るい未来への確信を歌う美しいせりふからも感じられる。
『三人姉妹』は単なる暗い悲しい劇ではなくて、悲劇的な基調と、喜劇的な色彩の交錯した一種混合的な人生劇であると言うことができるだろう。
モスクワ芸術座の新演出を含めて、今日の『三人姉妹』解釈は、おおよそこんな意味合いにおいてなされているようである。
参考文献
この解説をふまえて、自分なりに解釈してみます。
三人姉妹にはそれぞれ夢がありますが、みんな夢はかないません。
でも夢がかなわないのは「現実では」あたりまえなんです。
ものごとは思ったようにうまく運びません。だから「過去に戻りたい!あのとき、こうしていたら!」と考える人がたくさんいるんです。
だけど夢がかなわなかった今の生活は、苦しさばかりなのかというと、やはりそれも違うでしょう。
一番目の夢はかなわなかったけど、二番目、三番目の夢はかなえられた。そしてよくよく考えてみると、もし一番目の夢がかなっていたら、責任も今よりずっと重大だったろうし、はたして本当に幸せだといえるのか。たいていの人はそう考えて生きていると思います。
夢が必ずかなうのは、物語の世界だけ
チェーホフの三人姉妹は、演劇によくあるハッピーエンドのシンデレラストーリーではありません。かといって悲劇でもありません。人びとのリアルな日常を描いた物語です。
「一番目の夢はかなわなかったけど、歴史に名前は残らないかもしれないけど、希望をもって生きていこう」
三人姉妹のラストは、そのように読み解くこともできると思いますよ。
本日のレッスンは朗読と、シェイクスピア「ヴェニスの商人」(「ベニスの商人」という表記もあり) 白水Uブックス 岩波文庫 新潮文庫の3種類を読み比べしてみました。
日本語訳が微妙に…と言うか、けっこう違ってたりするんで逆にそれを利用しています。
一冊読んだだけではわかりづらかったセリフの意味も、3冊をくらべると「こういう意味だったのか」と把握しやすくなるんですね。
「ヴェニスの商人」おもしろいです。いいレッスンが出来ました。それでは、また来週