いばらない、ごまかさない
アインシュタインの授業スタイルは型破りだった。
彼は短いズボンにボサボサの髪といった、とても教授とは思えないかっこうで教壇に上がり、ちっぽけな紙に書きつけたメモだけを参考に授業をするのだった。
一度、授業につまったときがあった。
アインシュタインは、ある複雑な計算が思い出せなかったのだ。
「誰かわかる人はいませんか?」と彼は学生にきいた。もちろん、学生の手は挙がらない。
アインシュタインがいう。「じゃ、ここはとばして、結果だけいいましょう」
そして授業が再開して10分ほどたったとき、突然アインシュタインがいう。
「ああ、わかった!」
さきほどの複雑な計算のしかたを思い出したのだ。
学生の質問に答えられないときは、いつも「私にはわからない」と率直に言うのが、アインシュタインの授業のスタイルだった。
いばったり、ごまかしたりは決してしなかった。
こんなふうに、アインシュタインの授業は気どらず、人間的に温かなものだった。
アインシュタイン、素敵ですね。
エピソード1
最初にアインシュタインの特殊相対性理論に魅せられたのは、量子論の生みの親マックス・プランクだった。1905年の秋のことである。
プランクの助手、ラウエは、後にノーベル賞を受賞することになる優れた物理学者だ。
彼は、特殊相対性理論に強い衝撃をうけ、師プランクの賞賛したこの若き科学者アインシュタインにぜひとも会わなければと思った。
ラウエは、翌年の夏休みを利用してベルンにやってきた。
当時のアインシュタインは特許局に勤務していた。
特許局の待合室でラウエに一人の役人が、アルバート*1ならこの廊下をまっすぐにいくといいと教えてくれた。
その言葉のままに奥へ歩いていくと、一人の若者がラウエを出迎えに来た。
しかし、ラウエはそのみすぼらしい風体の若者がまさか相対性理論の父とは思わず、アルバートを無視してどんどん奥の部屋へと入っていったのだった。
アルバートはアルバートで、今すれ違ったラウエが自分をやり過ごしたのでラウエ本人ではないと思い、待合室のほうまで探しに出ていった。
おたがいに引き返してやっと二人は“出会う”ことができたのだった。
エピソード2
プラハ大学でのアインシュタイン就任講演も、もじゃもじゃの髪にみすぼらしい服装で、そして時にユーモアを交えておこなわれ、それは聴衆の心を深くとらえた。
歓迎の宴でのエピソードも、またアインシュタインらしい。
彼は緑色の、労働者が着るようなシャツを着てホテルにあらわれたので、ドアマンが彼を電灯の修理にやってきた電気屋に間違えて、なかなか会場に入れてくれなかったのだ。
そんなアインシュタインだったが、国の大学の教授であるから、立場はオーストリア・ハンガリー帝国の官吏である。だから、その任務に就くときは、帝国に対して忠誠を誓うという儀式をおこなわなければならなかった。
もちろん、アインシュタインもこの忠誠宣言をおこなった。
そのためにアインシュタインは、軍の士官服に似た金ぴかの制服を、高いお金を払ってあつらえなければならなかった。
こんなことがアインシュタインにとっては最も苦手で、最も嫌悪を感じるのである。
アインシュタインは、いやいやながらの宣言を終えると、さっさとその制服をサーベルとマント付きで売り払ってしまった。
そんなプラハに、アインシュタインはわずか一年半しか滞在しなかった。
エピソード3
ある日、アインシュタインの友人がベルリンの彼のもとを訪ねた時のことだ。
アインシュタインはアパートの玄関ホールで、行商人から口汚くののしられていた。
呆然(ぼうぜん)として、ののしられるにまかせているアインシュタインに、その友人はこういった。
「先生、もっと強くならなければだめですよ」と。
妻のエルザは、彼女が留守の間に、アインシュタインがエレベーターのセールスマンにいいように口説かれてエレベーターを買いはしないかと、いつも心配していた、と冗談めかしていっている。
そんなふうにアインシュタインは、ほんとうに無防備な子どものような人だったのだ。
アインシュタインは、いばらず、怒らず、気どったりなんかもしない誠実な人でした。
そんな人に、わたしもなりたいです。
参考文献
アインシュタインの宿題 大和書房
Voice actor laboratory 声優演技研究所
*1:アインシュタインの本名は「アルベルト・アインシュタイン」アルバートは愛称