わが愛の税務署
確定申告の季節になるとこの小説を思い出します。今年はコロナ騒ぎで〆切が一か月伸びましたね。
わが愛の税務署 筒井康隆
「しまった」と、おれは叫んだ。
読んでいた新聞をひっつかみ、すぐさま台所へかけつけ、妻にいった。「たいへんだ。えらいことを忘れていた。今日は確定申告の締め切り日だぞ」
「まあ」妻は蒼くなった。「どうして忘れていたのかしら」
「いそがしすぎて、ついうっかりしていたが」おれは舌打ちした。「しかし税務署だって悪い。今日が最終日だということを、もっと宣伝しないからいけないんだ」
「でもやっぱり、わたしたちが悪いわ」と、妻はいった。「税務署だって、都民をいら立たせたくないから、わあわあ催促するのを控えめにしているのよ」
「しかし、それにしても」おれは新聞を妻に見せた。「こんな、たった三行の記事じゃ、眼にとまらないよ。しかも締め切り日の朝刊にのせるなんて、あまりにも遠慮しすぎるよ。もっと宣伝をオーバーにやるべきだ」
「でも、宣伝をオーバーにやりすぎると、また都民が、宣伝費に税金を使いすぎるといって文句をいうわ。可哀想に。税務署は最近、おどおどしているのよ。あっちの気持も汲んでやるべきだわ」
「そりゃあまあ、彼らのびくびくする気持もわからぬことはないが、とにかく、ことは急を要する。おい。申告用紙をどこへしまった」
そして主人公は税務署にやってきます。
今日は申告の締切り日なのだから、きっと押すな押すなの超満員だろうと予想していたのだが、案に相違して受付の前には誰もいなかった。受付の女事務員が、ひとりでぼんやり腰をおろしているだけである。
察するところ、大多数の都民は今朝の新聞を隅から隅まで丹念に読まなかったにちがいない。そして今日が締切り日だということを知らないのだ。無理もない。おれがあの記事に気がついたのは、むしろ僥倖(ぎょうこう)だったといえよう。あんな小さな記事だったのだから。
受付の女事務員は美人だった。それも、すこぶるつきの美人だった。おれは武者ぶるいした。
「よう。姐ちゃん」おれはカウンターに肱をつき、彼女にいった。「確定申告にきたぜ。案内してもらおう」
彼女は美しい眼をぱっと見ひらいて、おれを凝視した。
「まあ」
それから天使のような微笑を浮かべた。
「申告ですって。それはそれは」立ちあがった。「ようこそいらっしゃいました。税務署の職員一同、どんなに喜ぶことでございましょう」
「あんたは喜んでくれないのか」
「もちろん大喜びですわ。ほら」
彼女はカウンターの前へ出てきておれに抱きつき、頬にキスをしてくれた。
「さあ。どうぞ。どうぞこちらへ」
受付の横には、豪華な応接室があった。なかへ入るなり、天井に吊るしてあった薬玉(くすだま)がふたつに割れ、飾り糸がおれの頭上へ降りかかってきた。と同時に天上の四隅のスピーカーから、ハワイアン・バンドの演奏する「ビヨンド・ザ・リーフ」が流れ出た。
女事務員はおれの首に、レイをかけてくれた。
「税務署へようこそ」
「ふん。なかなかみごとな応対ぶりだな」
「ようこそおいでくださいました。税務署員一同、大感激でございます。わたしは所得税【頂戴】係長でございます」深ぶかと一礼した。
「なんだ係長か」おれはソファに腰をおろした。「まあいい。これが確定申告書だ。見てくれ。ただし、四の五のと文句をぬかすと、ただではおかんからな」
「文句などと、とんでもない」
係長はたるんだ頬の筋肉をぶるんぶるんとふるわせ、おおあわてでかぶりを振った。
「何をおっしゃいます。めっそうもない」
係長は、おどおどしながらおれにすり寄ってきた。
「とんでもありません。ご主人さま。どうぞ、いばってください。大きな顔をしてください。そうしていただければ、わたしたちは嬉しいのです。どうぞわれわれ役人を、可愛がってやってください」
「可愛がってくれ――と、いうのだな」
「そうです。わたしたちは犬です。犬ころです」
コロナで大変です。消費税、凍結してほしいです。
原作はもっとハチャメチャだよ。「わが愛の税務署」おすすめします。
参考文献
わが良き狼 角川文庫