ワークショップ 声優演技研究所 diary

「なんで演技のレッスンをしてるんですか?」 見学者からの質問です。 かわいい声を練習するのが声優のワークショップと思っていたのかな。実技も知識もどっちも大切!いろんなことを知って演技に役立てましょう。話のネタ・雑学にも。💛

集団自決と日本人 満蒙開拓団の壊滅

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ強制収容所ユダヤ人はあらゆる迫害を受けたが、集団自殺の例はない。

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心に残った言葉を紹介します。

今回は、角田房子・著「墓標なき八万の死者」満蒙開拓団の壊滅 より引用させていただきます。

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「責任者はみな逃げてしまったんです。すべてが混乱状態です」

関東軍は、いったい何をしているんですか」

関東軍の腰ぬけはね、無抵抗で全面的退却ですよ。奥地の部隊は全部解散して、続々と白城子方面へひきあげています」

「・・・で、私たち開拓団は・・・」

「こうなっては、民間人のことなど構ってはいられない、ということでしょう。奥地にいては、みな殺しですよ」

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ソ連参戦を知った九日、*1 団では供出野菜の集荷に小学生までが総出で力を合わせていた。

「軍のため、お国のため」ということばに素直にうなずいて、幼い力を出してくれた子供たちをも、軍は置き去りにして退却してしまったのである。

子供たちに向かって、自分は何といえばいいのか——。
バカ正直であったと、自己をあざける余裕などはない。

ほとんどが女子供の一団を、どう守り、どうやって脱出させたらよいのか。*2

彼の思考の限度をはるかに超す難問と無理にとり組み、全身をしぼる思いで対策を求め続けた五日間であったろう。

しかしその結果は徒労であった。

極度の緊張を続けた末、責任の重圧に意志の力も尽き果てた山崎団長は、のめり込むように死を求めたのである。

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みなが口々に、一緒に死のうと申し出た。

前から予定されていたことを語るような、ためらいのない声であった。

この時、足立副団長がひと足前へ出て、声をあげました。

「皆さん、もう一度勇気を出してください。妻子のそばで死にたい気持は私にもあるが・・・」

彼は、最後まで生きる努力をしよう、と一同を説いた。——脱出した四百余人も、全滅するかもしれない。誰かが生き残って、この実情を故国に伝える義務がありはしないか——。

「あなたがそのお気持なら、どうぞよろしく頼みます」

団長がポケットから愛用のパイプを出しながら、いった。「形見に何か贈りたいが、もうこれしか残っていません」

差し出された団長の手を、足立は固く握りかえすほかなかった。他の人々は無言のまま、二人を見つめていた。

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その後の足立守三は、匪賊(ひぞく)*3 に捕えられ、ソ連の俘虜(ふりょ)*4 となり、収容所に入れられ、満人の苦力(クーリー)*5 となり、またある時は東蒙古人民自治軍に徴用されるなど、あらゆる辛苦をなめながら、遂に〝生きぬこう〟という目標を見失うことなく、昭和21年10月帰国した。

そのため、荏原開拓団の記録も残った。

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山崎団長はじめ、なぜこのように生きぬく努力をしなかったのかと惜しまれるが、これについて帰国後の足立は次のように語っている。

「自決した人々のことを思うと——みなが死ぬ必要はなかった、がんばれば生きられたのに——と、残念でたまりません。しかしそれは今でこそいえることで、あの当時の状況の中では、人間の精神が生きることに耐えられなかったのだと思います」

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敗戦直後に自決した満蒙開拓団の人々の中には、生きることをあまりに早くあきらめた——と惜しまれる例が多い。

平常の人間には理解の届かない心理であろうが、また同時に日本民族の特性でもありはしないか。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ強制収容所ユダヤ人はあらゆる迫害を受けたが、集団自殺の例はない。

満州へ渡る時から、開拓民にはそれぞれ何らかの覚悟があったと想像される。平和な先進国へ行くのとは、心構えも違ったであろう。

戦時中のことではあり、〝いさぎよく死ぬ〟〝桜花のように美しく散る〟ことを讃美する風潮に満ちた時代でもあった。

多くの日本人がこれを疑わなかった原因には、明治以来の精神教育よりもっと奥深く本質的な日本人の精神構造があり、これがいざという時、〝はかない〟とさえ感じられるあきらめを生み出すのでもあろうか。

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三人の青年団員に引率されて双明子部落から脱出した荏原開拓団の四百余人の中からは、一人の帰国者もない。

どこで、どのような最期を遂げたのか、一切は不明である。

引用
墓標なき八万の死者 満蒙開拓団の壊滅 中公文庫

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www1.odn.ne.jp

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*1:

ソ連参戦——昭和20年8月9日

*2:

開拓民は物資や労力を捧げただけでなく、壮年の男子は次々に軍へ吸収されていった。

19年9月までに、関東軍の兵力の多くがグアム、パラオ、レイテ、ルソン、沖縄などの決戦場に投入され、その後も兵力抽出は続けられていた。

昭和20年の五月ころまでに団の男の八割は招集されていたが、八月に入ってからの、十八歳以上四十五歳までの根こそぎ動員で、ほとんどの家が男手を奪われていた。

*3:

匪賊(ひぞく)は、「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉。
日本では、特に近代中国における非正規武装集団を指す。

*4:

「俘虜(ふりょ)」とは、現在でいう「捕虜(ほりょ)」のこと。第二次世界大戦まで日本陸軍では俘虜と呼んでいた。

*5:

苦力(クーリー)とは、奴隷制度が廃止された後、低賃金で過酷な労働を強いられた労働者。