人形つかいとエヴァンゲリオン
ぼくの愛するメアリがあの人工子宮のなかで、生きてもいず死んでもいない状態のまま塩づけのイナゴのように泳いでいたと考えると、たまらなかった。
水族館の壁に目をやると、たまらなくなっていった。
ここもやはり透明壁になっていて、それを通して何かがふわふわと浮いているのが見えた。
壁のすぐ向こうに浮いているのは人間の——地球人の身体だった。年の頃は四十か五十、両腕を胸の前に組み、両膝を引きつけて、まるで眠っているように見えた。
その男ひとりではなかった。
その男の向こうに、まだ男や女、若いものや年とったものがたくさんいた。
ぼくはその男が死んでいるものとばかり思った。が、やがてぼくは、その男の口が動いているのを見た。
「わしのいったとおりだ。彼女は現在の彼女より一つだって年を取っていない。おまえは、彼女が記憶をとりもどしはじめたあの部屋のことをおぼえているだろう?彼女は十年かあるいはもっと長いあいだ、ああしたタンクのなかで冬眠状態にあったのだ」
主人公サムの愛するメアリが、水槽のなかに漂っていたであろうという描写は、エヴァの綾波レイを彷彿(ほうふつ)とさせますね。
「人形つかい」は、ナメクジのような宇宙生物に寄生された人類が、精神を乗っ取られ、侵略者の思うがままにあやつられてしまうという、地球侵略をテーマにしたSFアクション小説の古典です。
「人形つかい」巻末の解説より
この種のSFが1950年代のアメリカで多く書かれた理由について、ピーター・ニコルズ編『SFエンサイクロペディア』は次のようにいっている——
これはいわゆる冷戦時代で、アメリカ人は、共産主義者とホモセクシャルがアメリカ的な暮らしをくつがえすため、ひそかな企みを進めていると日常茶飯的に信じこむよう奨励された。(中略) 共産主義者とホモセクシャルの決定的なところは、誰でも知っているように、彼らが見かけはわれわれとまったく変わらないということである。したがって人間そっくりの異星人についての物語が先例のない人気を博した。(福本直美訳/<SFマガジン>1984年11月号)
この指摘が本書にも当てはまることは容易に理解できる。
『人形つかい』を反共小説として読むのは簡単だし、ハインライン自身もそれを否定しなかったにちがいない。
しかし、〝ナメクジ〟に乗っ取られた者と共産主義者とは、この作品では同一視されていない。
はっきり別のものとして扱われている。そこに注意を払っておきたい。
もし、〝ナメクジ〟が単純に共産主義のアレゴリーであれば、本書はベルリンの壁の崩壊やソビエト連邦の解体とともに過去の遺物と化していたことだろう。
ハインラインが描いた「人間の心をもたない人間」の恐怖は、イデオロギーの異なる人間を排斥する気持ちを超えた、さらに普遍的かつ根源的なものだった。
50年代のアメリカ社会
はっきりと自分の意見を述べるタイプの女性だったメアリが、主人公のサムを愛するようになるにつれ、自分の意見を言わなくなり、従順になっていく描写や、「パパは何でも知っている」的なシチュエーションなど、【50年代のアメリカ社会】が垣間見られて、「ちょっと古いかな、時代おくれかな・・・」と思うところも、いくつかありますが、
※現代の感覚では、恋をしても、女性は男性とおなじように、自由に発言できるのがふつうです。男性だけが発言できて、女性がなにも言えなくなるのは、時代おくれなんですね。
そういったことも踏まえて読んでみれば
「人形つかい」は、小学校高学年くらいから楽しく読める小説だと思いますよ。それでは、また。
P.S.
今回紹介した以外にも「人形つかい」には、いろんなSF的アイデアが散りばめられています。
「もしかしてこれ、あの作品の元ネタかも…」みたいな読み解き方をするのも面白いと思いますよ。
なんでここで裸の女の人が出てくるのか・・・
「人形つかい」を読むとがとけますよ。