必死の外交交渉、関節話法
マザング星に大使として赴任した主人公は、目の前に降りかかった重大な危機を切り抜けられるのか
関節話法
「事件が起りました。マザングの宇宙船が、地球の反連合政府軍によって拿捕(だほ)され、積荷のウラニウムを奪われてしまったのです。そちらの政府は乗組員の安全さえ保障できないような星とはもう交易しないというのです」
「しめた」おれは思わず叫んだ。「では地球へ戻れますね」
「なにを無責任なことを」局長はおれを睨(にら)みつけた。「貿易が再開されぬ限り君は一生そのマザングから地球へ帰ってこられなくなるのですよ」
「や、や、やります。死にもの狂いで政府閣僚を説得します。で、マザング人の乗組員たちは、むろん無事に奪い返したのでしょうね」
「全員死にました」と、局長はいった。「奪還作戦が不成功に終り、反連合政府軍兵士に殺されてしまったのです」
「ではせめて犯人、つまりその反連合政府軍兵士だけはやっつけたのでしょうね」
「逃げました。それに彼らは、次第に勢力を伸ばしつつあります。むろん君は、そんなことは言わず、彼らを壊滅すべく連合政府軍が総力をあげて戦っているといえばよろしい」
おれは泣きそうになり、おろおろ声を出した。「嘘がばれたらどうするのです」
「嘘ではありません。なにが嘘か」局長がまっ赤な口をあけて叫んだ。「事実、わが軍は彼らと戦っているのです。わかりましたね。では、成功を祈りますよ」
マザング人と関節話法
マザング人は地球人とよく似ていますが、関節だけが発達し、関節話法で会話をします。たとえば、まず右手親指の第一関節をぽきりといわせてから足首をごき、と鳴らし、左手中指の第二関節をこきりとやると「思いやりのある人」という意味になります。
ところがこれをやる途中でもし足首が鳴らなかったりすると「馬鹿」になり、まったく違った、あべこべの意味になってしまいます。この辺が関節話法の難しいところなのです。
交渉開始
総理官邸へやってくると、総理大臣がむずかしい顔で関節をあやつり、おれに話した。
「わたしとしては、もう二度とこのような悲劇のないよう、地球との貿易を打ち切ろうかと考えております」
おれはあわてた。「もう二度とこのような悲劇はあるか。ないない。連合軍はもうない。敵はする。します。勝ちます負けます。敵はありません。よいのです」
戦争という単語が思いつかず、おれはいらいらした。
「勝ちます負けます。それに勝ちます。ひとつの必ずです」
「では、その戦争が終ってから、もう一度改めて貿易交渉を行おうではありませんか」と、外務大臣がいった。
「その戦争です。戦争」
あまり力をこめたので、鳴らない関節が出はじめた。右手首の関節が鳴らなくなり、船という単語が出せなくなったのでおれは困った。他のことばに言い換えなければしかたがない。
「えんやとっとのどこかへ行ったそのことは、地球のえんやとっとで、こっちの星へ来るのも地球のえんやとっと。だからこの星のえんやとっとの必要はひとつの今後はない。だから、だから」
鳴らぬ関節はますます多くなった。
「その誠意、血を出す。地球政府も鬼ばかりで、温かいですか。あるある。ないのはそれです。あたり前の裸です。それはひとつの何もないか。あるある。みんな涙をちびるからそれぐらいです。持っていますので心配はなく、お前らみんな馬鹿。われわれの見ていないのだからひとつの言いかたは先に決めたらいけない。こら。これはこんにちはです。失礼が、今は喋ると馬鹿に近い」
まさに手に汗にぎる息詰まるような交渉ですね。地球からの期待を一身に受けた大使は粉骨砕身努力します。
活字離(ばな)れの今だからこそおすすめ
筒井先生の本は一回ハマったら病みつきになると思います。
活字離れが叫ばれている今だからこそ、読んでほしい作品です。むしろ本をあまり読む習慣のない人におすすめします。止まらなくなりますよ。
「関節話法」おすすめします。
この他にも筒井先生の作品でおすすめがあったら教えていただけますか。
「郵性省」をおすすめします。「日本列島七曲り」(角川文庫)などに収録されているテレポート【瞬間移動】にまつわるSF短編小説です。笑えますよ。
参考文献
宇宙衛生博覧會 新潮文庫
おれに関する噂
ある日ふつうの人が有名人に!
NHKテレビのニュースを見ていると、だしぬけにアナウンサーがおれのことを喋(しゃべ)りはじめたのでびっくりした。
「次は国内トピックス。森下ツトムさんは今日、会社のタイピスト美川明子さんをお茶に誘いましたが、ことわられてしまいました。森下さんが美川さんをお茶に誘ったのは今日で五回目ですが、一緒にお茶を飲みに行ったのは最初の一回だけで、あとはずっとことわられ続けています」
「ん。なんだ何だなんだ」
おれは茶碗を卓袱台(ちゃぶだい)にたたきつけるように置き、眼を丸くした。
「なんだ。これはいったい、なんだ」
この物語の主人公は、人助けや大発見、もしくは悪いことをしたわけでもないのに、ある日とつぜん有名人になってしまいます。
翌朝、新聞の社会面におれのことが出ていた。
美川さん、森下さんの誘いを拒否
混雑した通勤電車に乗り、おれは隣に立っている男が読んでいる新聞にふと眼をやった。
おれの記事が出ていた。
はらわたが煮えくり返るような怒りに襲われた。
おれは満員電車の濁った空気を肺一杯にすいこんだ。
くそ。その手には乗らんぞ。発狂なんかしてやるものか。
「わははははははは」
おれは高笑いをした。そして怒鳴った。
「誰が、だれが発狂なんかするものか。おれは正気だ。わはははははははは」
この小説が発表された当時は、筒井先生お得意のドタバタSFといった印象でしたが
現在のSNSが発達した世の中ではもしかしたら誰もが同じ目に・・・という読み解き方もできちゃう、ちょっと怖いお話にも感じます。
たまたま名前が同じだった、というだけで、ひどい目にあったという事件が現実にありましたからね。
時代の変化とともに、小説の解釈も変わってくるんですね。おすすめします。
参考文献
おれに関する噂 新潮文庫
陰悩録
なんとこれ実話です。
陰悩録
「ひとりで、たのしんだりしては、いけないよ」
ママは、ときどき、ぼくに、そうゆいます。
でも、あれだけは、やめられません。
だって、あれは、とても、きもちがいい。
あんな、すばらしいことは、ほかにない。
ぼくのいえには、ぼくとママの、ふたりだけです。
ぼくは、ママが出たあとで、おふろに入るのです。
そして、ひとりで、たのしむのです。
おゆに入ったままで、せんを、ぬくのです。
せんをぬいた、あなの上に、ぼくは、おしりのあなを、あてるのです。
ああ、それは、なんと、きもちのいいことでしょー。
あなが、おゆを、すいこむ力はものすごい。
あなの上に、おしりのあなを、あてていますと、まるで、からだの中のものが、ぜんぶ、おしりのあなから、すいとられてしまいそーな、きもちになる。
それはもー、まったく、からだぜんたい、そして、あたまのしんまで、じーんと、しびれてしまうほど、いいきもちなのです。ほかの、どんなことよりも、いいきもちなのです。
こんないいことが、どうしてやめられるでしょうか。
すると、そのときです。
とつぜん、いつもにないことが、おこったのです。
きんのたまの、ふたつ入っている、ふくろが、いきなり、あなの中へ、すいこまれてしまったのです。
あっ、と思う、ひまもない、できごとでした。ぼくは、あわてて、ふくろを、あなから、ひっこぬこーとしました。
「ぎゃっ」と、ぼくは、さけびました。
とても、いたかったのです。
なぜ、いたかったかとゆーと、きんのたまが、あなにつっかえて、出てこなかったからです。
それは、ひどい、いたさでした。
こんどは、ゆっくりと、きんのたまを、あなから、ぬこーとしました。だけど、やっぱり、つっかえて、出てきません。なんどやっても、だめです。
ああ。ああ。ああ。
なんとゆー、とんでもないことに、なってしまったのだろーか。
なんだって、こんなくるしみを、あじわわなければならないのか。なんのために、こんな、きんのたま、などとゆーものが、あるのでしょーか。
いったい、かみさまは、なんだって、人げんの男に、こんな、きんのたまなどとゆー、ぶさいくな、いやらしい、くるしいものを、あたえたもーたのか。
ああ、きんたまよ。きんたまよ。
いったいお前は、どこからきたか。
くるしみのせかいから、やってきたのか。
ああ、きんたまよ。きんのたまよ。
ねがわくば、きえてしまえ。おねがいだから、すぐに、なくなってください。
主人公はどうなってしまうのでしょうか。とても気になりますね。
この小説のタイトルは「陰悩録」です。わたしは「日本列島七曲り」という筒井先生の短編小説集で読みました。
ところでこの「陰悩録」は実話だったんです。「狂気の沙汰も金次第」にふくまれるエッセイ「睾丸」がそれです。
東京・青山にあるぼくの家の風呂はタイルで、湯の栓が、浴槽(よくそう)の底の、ほぼ中央部にある。
ある晩、いちばん最後に入浴し、浴槽の中に入ったまま栓を抜いた。
そしたら陰嚢が吸いこまれてしまった。
この時は、たいへんあわてた。
「スターウォーズ」や「ロッキー」が実話をもとにしていることは有名です。そして「陰悩録」もそうでした。
同じように声優も日常を観察して、事実をもとにしたリアルな演技を表現できるようがんばりましょう。
参考文献
日本列島七曲り 角川文庫
狂気の沙汰も金次第 新潮文庫
大いなる助走
はらわたが煮えくり返っている。
またもやブンガクのことで朝からとび出したきりの主人が夕方になってもまだ帰ってこないのである。
中学三年になる長女はさっき学校から帰ってきたが、すぐ自分の部屋に閉じこもってしまった。
店番をしてくれるでもなければ夕食の支度(したく)をしてくれるでもない。頭はいいのだがそれだけに最近では母親を馬鹿にして滅多(めった)に話しかけてもこないし、何か言っても返事をしない。
部屋で何をしているのか、と、加津江は思う。
勉強しているのであればいいが、父親を真似てブンガクでも始めていたら大変、すでに滅茶苦茶の家庭がさらに滅茶苦茶である。
こんなことでわが家は先ざきどうなるのかと考えているうち、知らず知らず老婆の姿勢になっていたらしく、さっきは小学生に「おばあちゃん」と呼びかけられ、冷や汗がにじんだほどの衝撃を受けた。
これというのも主人のせいだ。
あの男のせいだと、そう思って加津江は憎悪をさらにつのらせるのである。
わたしがこんなに老けてしまったのもあのブンガク男のせいだ。
爆笑喜劇「大いなる助走」
筒井康隆先生、原作「大いなる助走」は文壇予備軍・小説家志望の同人誌作家たちを描いた爆笑喜劇です。
彼らの同人誌仲間から、プロデビューをはたし、その処女作が直升賞候補(直木賞のパロディ)となってしまう人物が出てきました。
同人誌仲間たちの心境はフクザツです。
スナック・バー「チャンス」には同人のほとんどが集まっていた。
直升賞が決まり次第すぐこの店へ電話を入れてくれるよう頼んでおいたのである。
「あのひと、受賞したとしたら」山中道子が低い声でつぶやいた。「きっとあなたの悪口を書くわね」
大垣は山中道子を睨みつけた。その通りだ、と大垣は思った。
いえ、あいつはこのひとのことだけじゃなく、わたしたちのことまで書くわ。山中道子はそう思った。
畜生。それにしてもあんな文章のへたくそなやつが候補になるなんて。ああ癪(しゃく)。ああ癪。あああ癪。ああ。あいつが落ちたらわたし、どんなに嬉しいでしょう。
「そろそろ始まるね」土井が腕時計を見てそう言った。六時二分前だった。当然のことながら戸外はまだ明るい。だが店内は暗い。
土井は高校しか出ていない自分が何年も苦労して小説の勉強をしてきたのに対し、一流大学を出た市谷がほとんど何の苦労もなくすらすらと書いたように見えるその第一作目であっさり直升賞候補になったため、大きな衝撃を受けていた。
やはり学歴がものを言うのだろうか。
あいつが一流大学出であるが為に候補になったのではないことの証明に、落ちてくれ。頼む。どうか落ちてくれ。
市谷が直升賞候補になったことを理不尽だと感じる気持の強さでは鍋島も他の同人たちに劣らなかった。
十数年も書き続け、おそらくは百篇近い短編を書いているであろう自分にはなんの報(むく)いもなく、小説をはじめて書いたという人間に照明が当っているこの現実は、どうしても認める気になれなかった。
おれが書き続ける意欲を失くさずにすむ為には、市谷京二が今回受賞してくれたら困るのだ。頼む。落ちてくれ。
スナック・バー「チャンス」のカウンターで電話が鳴った。
「もしもし。君か。どうだった。何。落ちた。落ちたのか。本当か」
大垣義朗と山中道子が同時に立ちあがって両手を高くさしあげ、声をかぎりに叫んだ。
「ばんざあい」
つられて鍋島智秀、土井正人が立ちあがり、声をあわせた。
「ばんざあい」
「ばんざあい、ばんざあい。ばんざあい」気ちがいじみた万歳が際限なく続いた。
さすがは筒井先生。人間の妬み・嫉みの気持ちをものの見事に活写しています。読んでて大爆笑させられます。
教訓
もちろん人間にあるのは妬みだけではありません。応援してくれる人たちもいっぱいいます。そういう人の期待に応えるためにも頑張りましょう。
とはいっても、妬む人もやっぱりいると思います。そういう人たちを悔しがらせるためにも頑張りましょう。応援してます。
本音をかくす
リアルかコメディなのかといった【演劇のジャンルによって表現方法も変わる】ことを覚えておこう。
「チェーホフの人物は、感じていることをいつも隠していませんか。彼らは感じているけど、隠そうとしています。」
「ああ、チェーホフか!大きな問題だ。」
サンフォード・マイズナー・オン・アクティング 而立書房より
「大いなる助走」はコメディだから、「ばんざあい」と表現してもまったく問題ない。ただしチェーホフ的なリアルな演劇で考えると、ここで「ばんざあい」とはならない。
つまり【腹のなかでは】「ばんざあい」と思っている。が、その気持ちは表には出さないんだ。
「残念です。応援してたのに…」などとコメントしながら心の中ではそれが、マイズナーと生徒たちがチェーホフについて議論していたリアルな表現方法だ、覚えておこう。
参考文献
大いなる助走 文春文庫
赤ちゃんから学ぶ深層心理
日常観察と演技の関連性
赤ちゃんは大人のようにウソをついたりごまかしたりしません。
そんなこともあって赤ちゃんや子どもたちを観察していると演技のヒントになることがけっこうあります。
お父さんと鬼ごっこ (追いかけっこ) をしている3歳くらいの女の子がいました。
女の子はお父さんに追いかけられて、きゃーきゃーはしゃいで一生懸命にげますが、ついにつかまってしまいました。ですが女の子は大喜びです。顔いっぱいに笑みをうかべて満足そうです。
そこで思いあたることがありました。
生徒の赤ちゃんです。
じつは朗読劇「コーカサスの白墨の輪」で赤ちゃんの笑い声がどうしてもほしかったので、くすぐって笑わせたことがあったんです。
思った以上に大笑いをしてくれたんでいい録音ができたのですが、
実はそのあと、赤ちゃんのお母さんの相手役を演じたんです。その役とは「おかあさんのことを怒る役」。あくまでもお芝居の台本通りにお母さんを怒る演技をしたんですね。
そうしたら赤ちゃんは悲しそうな表情でわたしを見ていて、ついには顔をそむけられてしまいました。
まだ演技と本当のことの区別がつかないんで仕方ないんですけど、赤ちゃんに機嫌をなおしてもらおうと、さっきと同じようにくすぐってみたところ…
まったく笑わない。
いやがったりこそしませんでしたが、まったくの無反応でした。
そこで気がつきました。
さっきは、くすぐったくて笑ってたんじゃないんだ。くすぐったくはなかったんだ。鬼ごっこをしていた女の子と同じで、うれしくて楽しいから笑っていたんだ。
行為は同じでも反応は真逆
それって、「かっこいい男と同じことを言ったのに」というセクハラの定義とおなじ・・・
そこを掘り下げるのはよしましょう。かなしくなるだけです。
こういうことに気がつくと、登場人物の本当の気持ちが見えてきて演技がリアルになってくるよ。
飛ぶ教室 その3
ケストナー作「飛ぶ教室」第三弾。いろんなものにアンテナを張って、アップデートを忘れずにというエピソードです。
「きみたちはこの『しゃれ』が気に入らないのかい」
「しゃれはちっとも悪くありません、校長先生。でも、ぼくの父の話によると、このしゃれは、父が高等科二年にかよっていたころすでに、古かったそうです。先生、なにか新しいことを思いついたらどうでしょう?」
すると先生は「たぶんきみのいうことは正しいだろう」というと教室から飛び出していった。
フリッチェは笑いました。ほかの数人もいっしょに笑いました。しかし大多数のものは、なっとくがいかないようすでした。
「ぼくにはよくわからないけれど、あの老人をそんなにおこらせなくてもよかったんじゃないかな。」
「なぜいけないんだ?」と、フリッチェがさけびました。
「教師は、いつまでも変化の能力を維持する責任と義務があるんだ。
そうでなきゃ、生徒は朝なんかベッドに寝たまま蓄音機(ちくおんき)のレコードに授業をとなえさせたっていいんだ。いや、いや、ぼくたちには、教師としての人間が必要なんで、二本足のかんづめが必要なのじゃないんだ!
ぼくたちを発達させようというんなら、じぶんも発達する先生が必要なんだ。」
「あの老人をなやますのはよそう!」と、美少年のテオドルがいいました。
「比較対象のために、あんな人も必要なんだ。あんな人もいなけりゃ、ベク先生【正義先生】のいいところがわからないだろう。」
アップデートがラクになるコツ
いったんおぼえたことをアップデートするのは大変だ。人間だれでもラクをしたいからな。
だが人間にはラクをしたい、なまけたいと思うのと同時に「いくつになっても楽しみたい」という欲求もある。
あたらしいことを知って、急に目の前がひらけたような気持ちを味わうのはいくつになっても楽しいぞ。それにハマれば、アップデートも楽しくなる。それが役者という生き物だ。
校長先生の後日譚(ごじつたん)
そして校長先生のエピソードには「後日譚(ごじつたん)」があるんですね。
クリスマスの日。
校長先生が短いあいさつをのべました。
それは彼がこれまでおこなってきたクリスマスのあいさつと似たりよったりでしたが、さいごに、今までにはなかった新しい二、三のもんくをのべました。
それが少年たちの心を動かしました。先生はこういったのでした。
「わたしはよく自分がサンタクロースだという気持ちになります。白いほほひげをつけてはいませんが、わたしはサンタクロースと同じくらい年よりです。
わたしはたとえ、むちでおどすようなことをしても、微笑(ほほえ)まれてしまうたぐいの人間です。
けっきょくサンタクロースのように、わたしは子どもを愛する人間なのです。
それをどうかけっして忘れないでください。そう思ってくれれば、たいていのことは大目に見てもらえるでしょう。」
先生はこしをおろして、ハンカチでめがねをふきました。
高等科二年生は、頭をたれました。
彼らはこの先生をばかにして笑ったことを恥じ入っていたのです。
大きなクリスマス・ツリーが、無数の電球でとても美しくきらめいたので、出席者はみんなおごそかな気持ちになりました。
参考文献
飛ぶ教室 その2
「飛ぶ教室」は、1933年に出版されました。
この年、ヒトラーが政権をにぎったため、自由主義者で平和主義者であるケストナーは、彼の書いた小説や詩集を公衆のまえで焼かれ、ドイツで著作を発表することを禁止されました。
ナチスもケストナーの子どもの本は禁止しなかったので、その年に、つまり本を焼かれた年に「飛ぶ教室」が出版されたんです。
それを知ったうえで本書を読むと、またいろんなものが見えてくると思います。
「飛ぶ教室」は小説ですから、事実そのままではありませんが、気持ちのうえではケストナーの自叙伝的小説といっていいでしょう。
文句なしにおすすめします。
飛ぶ教室 ケストナー
私は、ある著者からおくられた子ども向けの本を読みはじめましたが、まもなくわきへおきました。
ひどく腹が立ったのです!
なぜだか、いいましょう。その著者は、じぶんの本を読む子どもたちをだまして、はじめからおわりまでおもしろがらせ、楽しさで夢中にさせようとします。
どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?
そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう? (この機会に私はみなさんに心の底からお願いします。みなさんの子どものころをけっして忘れないように!と。)
つまり、人形をこわしたからといって泣くか、すこし大きくなってから友だちをなくしたからといって泣くか、それはどっちでも同じことです。
この人生では、なんで悲しむかということはけっして問題ではなく、どんなに悲しむかということだけが問題です。
子どもの涙はけっしておとなの涙より小さいものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません。
誤解しないでください、みなさん!
私たちは何も不必要に涙もろくなろうとは思いません。私はただ、つらい時でも、正直でなければならないというのです。骨のずいまで正直で。
人生の真剣さというものは、お金のために働くようになってからはじまるというものではありません。そこではじまり、そこでおわるものでもありません。
こんなわかりきったことを、みなさんが大げさに考えるようにと思って、私はことさらとりたてていうのではありません。また、みなさんをおどすためにいうのでもありません。
いや、いや、みなさんはできるだけ幸福になってください!
愉快(ゆかい)にやって、小さいおなかがいたくなるほど笑ってください!
ただ、何ごともごまかしてはいけません。またごまかされてはなりません。
不運にあっても、それをまともに見つめるようにしてください。
何かうまくいかないことがあっても、恐れてはいけません。不幸な目にあっても、気を落としてはいけません。
元気を出しなさい!
不死身になるようにしなければいけません!
みなさんは、ボクサーの言葉をかりると、受け身になった場合にも、がんばらねばなりません。打撃を忍(しの)んで、こなしていく修業が必要です。
そうでないと、世の中に出て、最初の一撃をほっぺたに食らうと、グロッキーになります。世の中というものは、とほうもなく大きなグローブをはめていますよ、みなさん!
それにたいする覚悟ができていないで、一発食らうと、もうばったりうつむきにのびてしまいます。
そこで、元気を出し、不死身になるんですね!わかりましたか。
それをまず心得たものは、もう半分勝ったようなものです。そういう人は、あまんじて顔を打たれても、沈着(ちんちゃく)さを失わず、あの二つのたいせつな性質、つまり勇気とかしこさをあらわすことができます。
私がいまいうことを、よく頭にいれておきなさい。
かしこさのともなわない勇気は、不法です。
勇気のともなわないかしこさは、くだらんものです!
世界史には、ばかな人々が勇ましかったり、かしこい人々が臆病(おくびょう)だったりした時が、いくらもあります。それは正しいことではありませんでした。
勇気のある人々がかしこく、かしこい人々が勇気を持った時、はじめて人類の進歩は確かなものになりましょう。
これまでたびたび人類の進歩と考えられたことは、まちがいだったのです。
子どものころを忘れないで
禁煙先生の台詞を紹介します。
「正義先生と、わたしとは、この学校で、また外の人生で、いろいろなことを学びました。
しかしわたしたちは何ひとつ忘れていません。少年時代のことを記憶にはっきりとどめています。これがかんじんなことです。
かんじんなことを永久に心にきざみつけて、君たちの少年時代を忘れないように!
君たちがまだ子どもである現在、そういっても、まったくよけいなことにきこえるでしょう。
だが、よけいなことではありません。わたしたちのいうことを信じてください!
わたしたちは年はとりましたが、若い気持ちでいます。
わたしたちふたりは、そのへんのことは、よく心得ています。」
本当の勇気とは
そして飛ぶ教室は、マルチンの「お願い」で締めくくられます。
ナチスに本を焼かれても、やさしい心をケストナーは忘れませんでした。
ケストナーは、あたたかい思いやりと、知恵と勇気をもって生きることで、人類を進歩させることができる、といっているのです。
「願いごとは今だ!」
少年は流れ星の飛ぶのを目で追いながら
「おとうさんと、おかあさんと、正義先生と、禁煙先生と、ヨーニーと、マッツと、ウリーとに、そしてゼバスチアンにも、この世でほんとにたくさんの幸福がくるよう、お願いします!それからぼく自身にも!」
参考文献