ワークショップ 声優演技研究所 diary

「なんで演技のレッスンをしてるんですか?」 見学者からの質問です。 かわいい声を練習するのが声優のワークショップと思っていたのかな。実技も知識もどっちも大切!いろんなことを知って演技に役立てましょう。話のネタ・雑学にも。💛

浮気をゆるす心理

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夫が浮気をした。

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でも妻は「夫は悪くない」とかばい、「悪いのは夫を誘惑した女のほうだ」と浮気相手の女を責め続けます。

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悪いのは男もおなじでしょ。そんなことも分からないのf:id:seiyukenkyujo:20190801201641g:plainと思うかも知れませんが

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実はこれ、わかっていて、夫をゆるしてるんですね。

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浮気をされた妻の視点で考えると、この心理がわかります。

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1.浮気をされたということは、夫の愛情が自分よりも浮気相手の女に傾いている可能性がある。

2.そんなときに夫を責めてしまったら、夫は自分を捨てて、浮気相手の女のほうに走ってしまうかも知れない。

3.「離婚してもいい」というなら話は別だが、「離婚はさけたい」のが本音であれば、夫が悪いのは百も承知で目をつぶり、女だけを責めたほうが得策である。

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こういうシチュエーションの役は、演劇には山ほど存在します。芸能人のゴシップネタだけじゃありません。f:id:seiyukenkyujo:20190913094429g:plain

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みなさんのお役に立てたら幸いです。

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美しい少女が天から降ってきた

口笛を吹きながら、ドイツの詩人キュウゲルンゲンが人通りのと絶(だ)えた夜更(よふけ)の街を歩いているところへ、ばさりと美しい少女が天から降ってきた。

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なんとなく有名なアニメ映画を思い出してしまうこの小説は、川端康成「海の火祭」の一部「香の樹」の冒頭部分です。

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川端康成は生涯にわたり「心霊」というモチーフを追い求めた作家でした。

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川端と心霊とのかかわりを考えるうえで誰しもが指摘するのは、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて世界的に大流行した「心霊学」の影響です。

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昭和2年(1927)に「中外商業新報(現在の日本経済新聞)」に連載された「海の火祭(香の樹)」に、古今東西の亡霊や葬いについての記述がありましたので紹介させていただきます。

海の火祭 (香の樹) 川端康成

印度(インド)なんか仏教の本家だけれども、アラバマの印度人は自殺者の死骸に限って葬いをせずにすぐ河の中へ棄ててしまうそうです。ダホマ人は野原へ置きっぱなしにして野獣に食わせますしね。

自殺者の亡霊はいつまでも行きどころがなくって迷っている、つまり浮ばない——コロンビアのトムソン印度人もそんな風に考えてるんです。

ペルウ島では祖先の墓に葬らないで、自殺したその場に埋めるし、カンボジアのバナヴ人は遠くの森の中へ持って行って埋めるそうです。

こんなのには皆自殺者の死霊は恐ろしく不吉だからあの世で普通の死人の霊魂と交際させては悪いという信仰から来ているんです。——

 「それくらいはまだいいほうですよ。四五百年前の話ですが、スコットランドのエヂンバラでは女が身投げをすると、その死骸を裏向けにずるずる市中を引きずり廻してから絞首台にさらしたそうです。

フランスでも十八世紀の中頃まで、やっぱり市中を引き廻した上に倒(さか)さにぶら下げて下水へ投げ込むんですって。

スコットランドの海岸には死骸を海と田畑との見えるところに葬ってはいけないという村があるそうです。亡霊の祟りで海や田畑に飢饉(ききん)が来るというんです。

やっぱりスコットランドの海岸ですが、自殺者は寺の庭の外に埋めて、通る人は皆石をぶっつけるんです。それから女には決してその上を踏ませないんですね。そこを踏んだ女の子供はまた自殺をするからってね。」

 「もう沢山でございますわ。まるで私が今にも自殺しそうなおっしゃりようですわ。日本では無縁仏のためにだって施餓鬼(せがき)をいたしますわ。」

 「さあ。それもあんまりあてにならんですね。盂蘭盆会(うらぼんえ)の魂迎(たまむか)えなんか真宗仏教が盛んになってからのことで、柳田國男(やなぎたくにお)さんの説にもお盆の起りは亡霊を追い払うためじゃなかろうかというのがありますよ。

松明(たいまつ)をともしたり、鉦(かね)や銅鑼(どら)を叩いて踊回(おどりまわ)ったりするのは、亡霊をうるさくていたたまれないように仕向けるためなんですね。

鉄砲で撃ち払ったこともあるそうです。

つまり死霊の影が村や町に蔓(はびこ)って、疫病を流行(はや)らせたり作物に害をしたりすると考えたんですね。

西洋の All Souls'Day が日本のお盆にあたると云うのです。——」

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が串を投げ杖を立てて黄泉(よみ)の国との境を作った——それが日本人本来の死者に対する考えらしいですね。」

 壁を壊して拡(ひろ)げた窓から死人の棺を出す村がある。

竹籠や臼を座敷中ごろごろ転がして、目に見えぬ死人の魂が忍んでいやしないかと確かめるところもある。

葬式の帰りにわざわざ廻り道をして川の流れを渡って来る土地もある。

墓場の帰りに草履(ぞうり)も鼻緒を切って捨てるのは珍しくない。

どこでも葬いに行って来た人には塩を振りかけてから家に入れる。

——これらは皆死者の亡霊と縁を切りたいための習わしである。伊弉諾尊が串を投げ杖を立てて黄泉の国との境を作られたという伝説と同じ心である。

それから、東京の葬式に使うことがある玉串という榊(さかき)の杖、軍艦河内の殉難者の葬式が内郷村にあった時に柳田國男さんが見て来た金剛杖という竹串——そんなものも死者の亡霊を二度と再び生前の家へ舞戻らせないためのおまじないらしいと話してから、時雄はいった。

「日本にも死人の亡霊を嫌う考えが古くからあったんですね。それがいろんな形で伝わっているんでしょう。」

「そりゃそうさ。」と誰かが時雄を笑った。
「どこの国にだって死人の好きな人種はいないだろう。」

「しかし、そうとも限らないだろう。そりゃあ死骸を見れば誰だっていい気持はしないだろうが、死人の魂は嫌な死骸とは別だと考えるんじゃないかね。」

「あたりまえさ、でなくちゃ宗教も心霊学もありゃしない。」

「だから日本なんかも、第一神話からして死者の亡霊を尊敬している国なんだ。高天原(たかまがはら)に住む八百萬神(やおよろずのかみ)というのは先祖の幽霊達としか考えられない。

そういう先祖崇拝(せんぞすうはい)の国でありながら、さっきの話みたいに肉親の亡霊を嫌う考えも古くからあったんだ。」

「地獄と極楽があるようにね。

合邦ヶ辻(がっぽうがつじ)の浄瑠璃(じょうるり)にも肉縁の深い者程なお恐ろしいという文句があるじゃないか。

まあ例えば恋人が死んだとしたら、その魂は天国に行って生きていてくれりゃいいと思うし、生き返ってほしいと思うのが人情だが、さて幽霊になって出て来られりゃ大抵逃げ出すだろう。

それを抱いて寝たりしちゃ雨月物語のような怪談だ。」

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「海の火祭」が発表された、百年前の(西暦1927年)人たちは、こんなことを考えていたんですね。なかなか興味深いです。

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現在ではあたりまえな【常識】も、百年後の22世紀の人たちの目にはどう映るだろう・・・と考えながら読むと、単なる迷信としてバカにはできませんね。

参考
川端康成全集 第二十二巻 新潮社
文藝怪談実話 文豪怪談傑作選 ちくま文庫
文豪怪談傑作選 川端康成集 片腕 ちくま文庫

海の火祭タイトルの由来

宮島の厳島神社ね、あすこの燈籠流(とうろうなが)しはそりゃあ綺麗なんですって。
娘なんか皆泳いで燈籠を沖へ流しに行くんですものいいわ。それこそ海の火祭ね

(「海の火祭」作中の文章より)

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墓標なき八万の死者

満蒙開拓団の壊滅

満蒙開拓団の人々は〝国策〟と呼ばれた至上命令を信じて満州に渡った。

昭和20年8月9日、ソ連参戦と同時に彼らは日本軍に放棄され、一切の保護を失って、血と泥と雨の中の逃避行を続け、虐殺、暴行の地獄を彷徨し、収容所では飢餓と寒気と悪疫にさいなまれた。

女たちはその上に、異国の男の獣欲にまでさらされねばならなかった。

こうして多くの開拓民——日本人の大集団が非業の死をとげ、全員が財産を失った。

この人たちの悲劇は、これで終わってはいない。戦後二十何年かたった今日なお、癒(いや)すことのできない痛手に苦悩の日を送っている人々が多いのである。*1

敗戦直後の満州で極限状態におかれた人たちの姿に、私は改めて人間というものを考えさせられたと同時に、今日なおうずく傷を負い続ける人々の姿は、私に国家と国民との関係を考えなおさせる。

関係のない、どこか遠い国の話ではない。

これは私たちの同胞の姿であり、私たちの国家のことである。

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開拓民の受難の記録を私は書いたのだが、これは物語ではない。あくまで事実だけを追った。

ソ連参戦——昭和20年8月9日、満州国東安省密山県黒台信濃村——

蜜蜂のうなりのような爆音に気づいた加藤清乃は、畑仕事の手をとめて空を仰いだ。ここは昭和12年に、長野県の各地から渡満した人人が入植した第五次信濃村開拓団である。

暗緑色の翼の三機が、南へ向かっていた。
昨夜から関東軍の大演習でも始まっているのか、しきりに砲声が伝わっていたが、この戦闘機もそのためであろうか——。
頼もしそうに機影を見上げる清乃の口許に、微笑が浮かんだ。彼女はそこに、きょう夜明け前に出征していった夫・加藤松三の姿を描いて、語りかけた。

 

——父ちゃん、るすはしっかり守ってゆきますよ。

 

松三が招集を受けたのは、おとといだった。
その夫が戦闘機に乗っているはずもないのだが、清乃にとって、今は日本軍のすべてが夫とつながるものに思われた。


暗緑色の機影を仰ぎ見る彼女は、あとに残された田畑を、身を粉にしても立派に守りぬかなければならない——と身をひきしめた。

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清乃の家だけではない。この年の五月ころまでに団の男の八割は招集されていたが、八月に入ってからの、十八歳以上四十五歳までの根こそぎ動員で、ほとんどの家が男手を奪われていた。

 

急に家長の座についた主婦たちは、みな健気(けなげ)に重い責任に耐えていた。夫の分までも働いて、軍への供出を少しでも多く——それは強制されたものであったが、命令されるまでもなく女たちは精いっぱいの努力を続けていた。

 

お国のため——なのである。
これほど大切なことが他にあるだろうか。


まして自分たちがソ連の国境に近いこの北満の地で、安心して開拓を続け、着々と生活の基盤を築いてゆけるのも、関東軍がしっかり守っていてくれるおかげである。

その軍に、できるだけの協力をするのはあたりまえのこと——と、彼女たちは思っていた。

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ソ連が攻めこんできたッ!団本部の協議で避難することに決まったから、あすの朝十時までに二区に集合!」

 

緊張にひきつった伝令の顔を見つめて、清乃はとっさに声も出なかった。

——ソ連と日本との間には不可侵条約とかがあって、決して戦争にはならんと聞いていたが・・・避難といってもほんの数日ここを離れるだけだろうが、それにしても、夫からあずかった田畑を放り出して逃げてもいいものだろうか。

 

「行かにゃあ、いかんのでしょうか・・・」
「ここにいては危ないのだ!今朝から何度もソ連の戦闘機がこの村の上を飛んでいるし・・・あす朝、十時までに・・・」

 

清乃は膝をついたまま、南へ飛び去った暗緑色の飛行機を思い浮かべた。

 

——あれがソ連の飛行機だったのか。私は敵に向かって手を振っていたのか——。

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十日の未明から、村は敵機に襲われた。

この開拓団のある東安省は、ソ連国境の真正面に位置している。

繰り返し行われる爆撃は、人々がなお心の隅に残していた〝ソ連参戦への疑い〟を吹きとばし、「疎開しても、じきに帰ってこられるだろう」などという甘い見通しを無残にうち砕いた。

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二区の集合地を目指して、清乃は懸命に馬車を急がせる。

荷台の、こぼれるほどに積まれた荷物のかげに、孫二人を体で包みこむようにして志保*2が座っていた。

ソ連機の爆音と機銃掃射の音を聞きはしたが、すでに何度も経験しているので、自分とは関係ない距離と判断して歩き続けた数分後、彼女は道に置き去りにされた車の荷台に、三人の幼児の惨死体を見たのである。

機銃掃射で殺された子供たちは、どっぷりと血を吸ったふとんの上に折り重なり、あお向けに倒れた女の子はポカンとした表情で、見開いた目を空に向けていた。

 

清乃は馬を急がせながら、目に焼きついた情景と必死で闘っていた。

昨日まで、照るにつけ降るにつけ、心を配ってきた左右の麦畑など、もう目にも入らなかった。

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二区の集合所を目指して、各部落の馬車があとからあとからと集まってきた。

 

昨夜の伝令の話では、ここで避難行の編成がされるはずであったが、二区の住民たちは他の部落の到着を待たず、とっくに出発していた。

それを知った人々は、危険地帯にとり残された思いにつき上げられ、あわてふためいて前へ進もうとする。

 

一刻も早く、強力な手にすがりつきたいのである。

誰の胸にも、日ごろ〝無敵〟と聞かされている関東軍の名が、護符のように抱かれていた。

——不可侵条約を犯して攻めこんできたソ連軍は、やがて関東軍に撃滅されるだろう。

そうに違いない。

早く日本軍のいる地域にたどりつかなければ・・・。鉄道の駅へ出れば、汽車で軍の所在地へ行かれるだろう——。

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これほど開拓民に信頼され、その奮戦を期待されていた関東軍とは、どのようなものであったのか。

 

1941年(昭和16年)6月、独ソ開戦ののち、関東軍はソ満国境地帯に大部隊を集結して、ソ連に脅威を与えた。いわゆる関特演である。

 

この年の12月、日本は太平洋戦争に突入した。

 

その後も関東軍満州に兵力を充実して、攻撃能力を維持していた。

しかし太平洋方面の戦局の悪化で、昭和18年10月、関東軍第二方面軍司令部を濠北方面に転用したのを契機に、在満兵力は次第に太平洋方面に抽出されていった。

その結果、昭和19年末には、戦力は最盛時の二分の一以下に低下し、さらに抽出転用は増加する情勢にあった。


対ソ攻撃作戦など、考えることもできない状態である。

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昭和20年5月、ナチス・ドイツは壊滅した。

 

ドイツ壊滅後、ソ連軍の東方移動が急に活発となった6月4日、梅津美治郎参謀総長は大連に飛び、全満州の四分の三を放棄して、新京を頂点とし朝鮮国境を底辺とする三角地帯を防衛し、特に通化を中心とする東辺地帯を確保せよ、という指示であった。

 

全開拓民の半数以上が所在する国境沿いの北部、東部地方は、ソ連参戦の約二ヵ月前に、開戦のあかつきには放棄と日本軍首脳部によって決められていたのである。

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これほどまでに事態は切迫していたのだが、なぜ関東軍は国境地帯の開拓民の安全を計る措置をとらなかったのか。

 

国境地帯の日本人が大量に移動すれば、全満に不安動揺が起こり、それによってソ連の参戦の時期が早まりはしないか——という恐れを抱いたためである。

 

ソ連参戦の一日でも遅いことを願う軍は、ソ連を刺激しないため——〝対ソ静謐(せいひつ)保持のため〟戦略的に開拓民の放棄を決定したのである。

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こうして、あすにも火を噴くかもしれないソ連軍の砲口の間近で、その危険も知らされぬままに働き続けていた開拓民は、祖国に対し、軍に対し、どのような態度をとっていたか——。

 

日本の敗色が次第に濃く、内地の食糧事情が悪化するにつれて、満州の開拓団に寄せられる期待と負担は急激に増していた。

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昭和16年以来、11月23日の新嘗祭(にいなめさい)には、明治神宮に開拓地の農産物を献納し続けてきた。

終戦も間近い時期に献納されたそば一万石は、満州移住協会が明治神宮から払い下げの形式をとり、東京そば組合の手を経て、空腹に悩む一般市民に届けられている。

 

中央からの指示による米穀の供出はもとより、現地部隊からも馬糧としての燕麦や乾し草、蔬菜(そさい)、羊毛、肉、皮革、木炭などの供出命令があった。終戦間際には松根油の採取、山ぶどうの採取、わらびの生産などにも労力奉仕を行った。

 

こうした指令をたずさえて開拓団に来る将校たちは、その度に〝無敵・関東軍〟の威力を誇り、その力をいっそう発揮するための協力を開拓民の義務として強要した。

 

将校の話には〝未曾有の国難〟や〝皇国の運命を決する戦い〟などのことばがしばしば使われたが、情報にうとい開拓民に戦局の判断などつくはずもなかった。電気のない村が多く、ラジオさえなかった。

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昭和20年にはいると、開拓民の前に立つ軍人の表情はいっそう厳しさを増し、軍民一致を説く声は怒号に近かった。

 

当時の関東軍は、兵器、軍需品も欠乏し、命じられた作戦遂行には野砲四百門が足りず、応召兵の小銃さえ十万梃(じゅうまんちょう)が不足している状態であった。

 

この惨憺たる実情を知ればこそ、将校たちは開拓民の前でいよいよ虚勢を張り、〝皇国不敗〟の神話を声を荒らげて説く結果になった。彼ら自身がなんとか自分のことばを信じ、神話にすがりたかったのである。

 

だが開拓民にそうした軍人の心理などわかるはずはない。

 

彼らは軍人の緊張を頼もしく眺め、いっそう農耕に励み、自分たちは粗食しても軍への供出には良質の品を豊かにそろえた。

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開拓民は物資や労力を捧げただけでなく、壮年の男子は次々に軍へ吸収されていった。

 

19年9月までに、関東軍の兵力の多くがグアム、パラオ、レイテ、ルソン、沖縄などの決戦場に投入され、その後も兵力抽出は続けられていた。

 

関東軍は対ソ戦闘兵力の充実からも、作戦準備を急速に進めるためにも、大本営発表による支那派遣軍からの転用兵力を便々と待ってはいられなかった。

 

自力により兵力の増強を計るほかなく、満州での動員可能の人員約二十五万がその対象となった。

 

20年7月以後の〝根こそぎ動員〟である。

 

この動員は日ソ開戦の8月9日以後も継続され、さらに十万人が召集された。

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——指導員が清乃に声をかけた。

「これは、まさかの時のために・・・」

清乃の手のひらにのせられた二個の薬包みに何がはいっているのか、説明は抜きだった。

清乃は表情を失った顔で深くうなずき、薬の包みをふところに納めた。

青酸加里の包みである。

 

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チェーホフの銃

 

「もし第1章で、壁にライフルが掛けてあると述べたなら、第2章か第3章で、それは必ず発砲されなければならない。もし、それが発砲されることがないなら、そのライフルはそこに掛けられるべきではない。」

この概念は、ロシアの劇作家アントン・チェーホフに由来している。

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「墓標なき八万の死者」は、事実のみを伝えたノンフィクションですが、「チェーホフの銃」の概念は生きていました。

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青酸カリの包みは、使われることになってしまうのです。

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それってネタバレ・・・いえいえ、実はここまでで、全体の6分の1。メッチャ中身が濃い作品です。

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この本のすごいところは、とにかく読みやすいこと。スイスイ読めちゃいます。ページをめくる手が止まりません。

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読みやすさは大切です。

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なぜなら読みやすければ読みやすいほど、一人でも多くの人に戦争の実情や悲惨さが伝わるからです。

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「墓標なき八万の死者」文句なしにおすすめします。

敗戦の昭和20年、満蒙開拓青少年義勇隊や報国農場隊を含み、27万に達する開拓民が満州にいた。

引用
墓標なき八万の死者 中公文庫

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www1.odn.ne.jp

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*1:

「墓標なき八万の死者」は、昭和42年11月、番町書房より出版されました。

*2:

清乃の姑

演技の深掘り、ゆきおんな

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 昨日のブログの続きだよ。

お雪の「何を思いだす…」を考える

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雪女のことを夫がしゃべるのではないかと気づいたとしても

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「ついにしゃべる気になったようね・・・長いこと待ったかいがあった」

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と怖い感じで演じるのではなく

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「やめて、お願いだからその先は言わないで、お願い・・・」

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と、辛(つら)くせつなく哀しい思いで、体を小刻みにふるわせながら、か細く押し殺したような小さな声で演じれば、お雪の恋心を表現できるかな。

雪女は人間じゃないから、何千年も生きられる。

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だけど、その長い長い一生のうち、お雪が本当に幸せを感じたのは、愛する夫と可愛い子供たちと過ごした、この数年間だけだったのかも、と解釈したら・・・

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まぁ、この「ゆきおんな」を収録したのは去年ですから、あのころより少しは読解力もUPしたのかもね。なんにせよ、あの時の生徒と私との「全力」が昨日の動画には記録されています。それでは、また。

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www1.odn.ne.jp

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ゆきおんなレッスン中のウラ話


www.youtube.com

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「ゆきおんな」クライマックス部分の朗読です。

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実はこれ、声優プロダクション「アクセント」ナレーションコンテスト応募作品として作成していたものなんですが・・・

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なんとナレコン終了f:id:seiyukenkyujo:20191122020602g:plain

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どうしようか、それならYoutube動画にアップしよう、と生徒と話し合って公開を決めた次第であります。

レッスン中のウラ話・・・

怪談として怖く語るのではなく、お雪のせつない恋心を表現しよう。

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「お前の顔を見ていると昔のことを思い出す・・・」と、夫が語り出したときも、まさか約束を破られるなんてお雪は夢にも思ってなくて

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「もお・・・初めてのあの夜のことを言いだすのかなf:id:seiyukenkyujo:20201118232347g:plain」くらいに勘ちがいしてて、

f:id:seiyukenkyujo:20190801181743j:plain気づかないフリ♥貞淑な妻は必死におすまし♥

だけど、その気持を出しすぎちゃうとギャグになっちゃうから、わざと気がつかないフリをお雪はしていて

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だってそのセリフで「約束を破るかも」と、ピンf:id:seiyukenkyujo:20210428212651g:plainときたら、お雪は心のどこかで「夫を信じ切れていなかった」ただ、スパイのように監視していただけだった「そんな愛のない生活、楽しい?」という解釈にもなりはしないか 

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もしくは、愛する夫と可愛い子供たちとの夢のような楽しい生活が、いつの日か、夫のたった一言の言葉によりすべてが崩壊するのではないか・・・とお雪は日々おびえながら暮しているのか…そんな生活もイヤだよね。

ということで

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1.お雪は将来の夫となる人に一目惚れをしたから命を助けた

2.心の底から愛しているから妻になった

3.夫を疑う気持なんてこれっぽっちもなかった

・・・だけど、ブコメではなく演じよう、とレッスンしました。

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無理難題・・・f:id:seiyukenkyujo:20191130045805g:plain

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がんばって演じてくれた生徒に感謝です小泉八雲の「怪談」(岩波書店)に収録されている「雪おんな」とは違うバージョンの昔話です。民話って少しずつカタチを変えて日本各地に伝わっているんですね。よろしければぜひ、お聴きください。*1*2

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朗読参考
ゆきおんな 日本名作おはなし絵本 小学館

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www1.odn.ne.jpf:id:seiyukenkyujo:20190913095427p:plain

*1:

自然への恐れと、子どもへの思いが込められた話

児童文学作家 千葉幹夫

 

雪女の話は小泉八雲の『怪談』に載っている話が有名で、これは東京都青梅市の話を元にしていますが、じつは沖縄県を除く全国で語られているのです。

 

雪女にはいろいろな呼び名があります。

 

雪おなご(青森県)、雪女郎(山形県新潟県)、雪降りばば(長野県)、雪んば・雪おんば(愛媛県)、雪ばしょ(鹿児島県)などで、若い女性だとも老婆だともいいます。

 

多くは雪とともにやってくるといいますが、岩手県遠野市では冬の満月の夜にたくさんの子どもを連れてやってくると伝え、そのときは外に出てはいけないと戒めています。

 

雪女の話は、多くは雪害に苦しむ地方の人々の恐れを伝えています。

 

秋田県では雪で行き倒れになった人の霊魂だといい、もし出会ったなら顔を見るなとも語ります。

 

新潟県には雪山で迷子になり、雪女の家に泊めてもらうが、結局命を取られる話があります。

 

この本で興味深いのは、最後に雪女が子どもを抱いて出るところです。これは「子どもを抱いてくれ。」と言って出現する産女(うぶめ)との関連を思い出させます。

 

産女の子は抱くとしだいに重くなりますが、最後まで抱ききると怪力を授けるといいます。

 

産女と神の関連をうかがわせるものですが、思えば雪女も子どもたちを残して去ります。

 

自然への恐れとともに、子どもは神からの授かりもの、底流に人々のそんな思いがあるような気もします。

日本名作お話絵本 ゆきおんな 小学館 あとがきより

*2:

小泉八雲の「雪女」

小泉八雲ラフカディオ・ハーン)が『怪談(Kwaidan)』の中で雪女伝説を紹介している。


この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである。

原典

小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い。調布市は元・神奈川県域の多摩郡で無関係)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)[8]。

この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は信憑性が高いと考えられ、2002年には、秋川街道が多摩川をまたぐ青梅市上長渕の「調布橋」のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。

表側には碑文が刻まれ、裏側には「雪女」の和英両方の序文と小泉の肖像が刻まれた銘板が嵌め込まれている。

江戸時代の日本は現在よりも気温が低く、現在の東京都多摩地域に相当する地域は冬に大雪が降ることも珍しくなかった点から、気象学的にも矛盾しない。

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より

小学生vsソ連軍 満蒙開拓団の壊滅

小学生たち——五年生以上の男女二十余人。

日本がすでに降伏していることを誰も知らない。

日ごろ軍事教練を受けていた子供たちは、どうせ死ぬならと、すすんで決死隊に加わった。

木槍を手にまっしぐらに走る子供たち

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なんなんだよ、それ。マジかよf:id:seiyukenkyujo:20190913102311g:plain

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佐渡開拓団跡に残る七団体およそ二千人の人々は、ソ連軍に囲まれ一斉射撃を受けていた。

 

更級郷開拓団は正村団長の指揮で、青年学校の生徒を含む約百人が、土塀のかげで戦闘配置についた。

 

ソ連軍は女子供や老人が逃げこんだ馬小屋を目がけて、迫撃砲を撃ちこんだ。土煙が納まった後には、死体が折り重なっていた。

 

服毒する者、子供を刺す者、鎌で喉をかき切る者、狂乱の結果か赤ン坊を抱いて敵の機関銃めがけて走る老婆など、本部の建物の周辺は混乱の極(きわみ)に達していた。

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勝敗は、初めから問題にならなかった。もうだめだ——と見切りをつけた正村団長は、戦闘員をひき連れて最後の突撃を敢行した。

 

その中には北沢校長に率いられた小学生たち——五年生以上の男女二十余人の、木槍を手にしたいたいけな姿もあった。

 

日本がすでに降伏していることを誰も知らない。

 

日ごろ軍事教練を受けていた子供たちは、どうせ死ぬなら一人でも敵を倒してお国を勝利に導きたい——と、すすんで決死隊に加わった。

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教え子たちの悲惨な突撃に、女教員・塚田浅江も参加した。

しかし体力尽きて倒れ、彼女は木槍を手にまっしぐらに走る子供たちの後姿を見送りながら、服毒した。

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地に顔を伏せた浅江の意識が次第にかすむころ、彼女の頭の右手間近で手榴弾が炸裂した。翌日、幼い子供に呼びさまされるまで、浅江の意識は戻らなかった。

彼女は奇跡的に生還したが、この日から右眼と、右耳の聴力を失った。

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長野県社会部の資料によれば、更級郷は371人が戦闘に参加し、218人が戦死、81人が自決している。*1

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もうメチャクチャ・・・だけどそれが現実なんだよね。戦争絶対反対。

引用
墓標なき八万の死者 中公文庫

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www1.odn.ne.jp

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*1:

佐渡開拓団跡で遭難した八開拓団の一つ、阿智郷は、長野県が送り出した最後の開拓団である。

昭和19年4月末に入植した彼らは、ソ連参戦による引揚命令を受けた時、まだ北満の土とのなじみさえ薄かった。

日本の敗色濃い19年に、政府はなお「満蒙開拓への協力は農民の忠誠心のあらわれ」と宣伝していた。

お国のためといわれ、広大な土地に夢を託して渡満した彼らは、わずか一年余りの後、佐渡開拓団跡で多くの犠牲者を出した。

阿智郷の215人中、151人が再び故郷の土を踏まなかった。

佐渡開拓団跡のソ連軍襲撃による死者の数は、資料によりまちまちである。

大混乱の中では、その場で戦死したのか、自決したのか、または脱出行の途中で死んだのか、正確にわかるはずもない。

満州開拓史刊行会発行の『満州開拓史』に収められた更級郷の団員・斉門新三提供の資料によれば、1,464人がここで死んだ。

敗戦直後の開拓民遭難事件のうち、最大の犠牲者数である。

だまされるものか!満蒙開拓団の壊滅

団員たちを絶望的な気持に駆りたてたのは、たった今まで炊事を手伝うなど好意を示してくれていた部落民までが、兇器を手に匪賊(ひぞく)*1の群に加わっていることであった。

だまされた——

ここに至って、初めて部落民の親切の裏が読めた。匪賊に通報する時間をかせぐため、火をたき、水を汲んでくれたのである。

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昨日のブログで紹介した、山崎団長ひきいる東京荏原開拓団は、親切そうな満人にだまされて大変なことになります。

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だけど、こんなこともあったようです。

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丘へかかろうとすると、また高地から弾を浴びせられた。

匪賊(ひぞく)らしい。

方向を変えて、部落のある方向へ逃げた。

 

道が二またに分れている所で、先頭が右へ進もうとすると、ボロをまとった陰気な顔の満人にさえぎられた。

「こっちの道には匪賊がいるから、あちらへ行け」と彼は告げる。

 

だますなッ

——と、先頭の男がいきなり日本刀をぬいて、この満人を斬った。この気の立った男の妻は、明け方、夫にも告げず子供と共に服毒して死んでいた。

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一行は先頭に続いて、右の道へ進んだ。

たちまち匪賊らしい多数の男が現われ、逃げようとした時は退路も断たれていた。

抵抗するひまもなく、男たちだけが前へひき出され、女子供は銃を持った匪賊に囲まれて、無理やりに歩かされた。

 

夫と息子を奪われた女が、ひきたてられながら毒を口に入れようとした。

それに気づいた匪賊の一人がとっさに彼女の腕をつかみ、白い粉は口から胸へ散った。殺せ、殺せッ——と絶叫する女は道になぐり倒された。

 

女子供だけが、古びた倉庫に入れられた。これ以上の危害は加えないらしい。

男たちの消息はわからない。殺されてしまった——と、女たちは決めていた。また何人かの自決者が出た。

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これは昨日のブログで紹介した、山崎団長の東京荏原開拓団とは違う、黒台信濃村の一団の記録です。

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黒台信濃村開拓団は、「だまされてたまるか」と、本当のことを教えてくれた満人の忠告を聞かなかったために匪賊に捕まってしまったのです。

親切な満人もいたんです。

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もう何を信じたらいいのかまったくわかりません。それが戦争だ、と言ってしまえばそれまでですが・・・。戦争反対。 

引用
墓標なき八万の死者 満蒙開拓団の壊滅 中公文庫

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www1.odn.ne.jp

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*1:

匪賊(ひぞく)は、「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉。
日本では、特に近代中国における非正規武装集団を指す。