戦争プロパガンダ 10の法則
われわれは、こうして騙(だま)された
プロパガンダとは
プロパガンダは、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為である。 通常情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され、しばしば大きな政治的意味を持つ。ウィキペディアより
戦争プロパガンダには「『敵』がまず先に攻撃を仕掛けてきたということになれば、国民に参戦の必要性を説得するのにそれほど時間はかからない」という法則がある。
この本がすごい
本を紹介することで、わたしがお金を儲けようとは思っていません。なので
目次のタイトルだけでも面白いですよ。
【目次】
第1章「われわれは戦争をしたくはない」
第2章「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
第3章「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
第4章「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
第5章「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
第6章「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
第7章「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
第8章「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
第9章「われわれの大義は神聖なものである」
第10章「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
われわれは戦争をしたくはない
あらゆる国の国家元首、少なくとも近代の国家元首は、戦争を始める直前、または宣戦布告のその時に、必ずといっていいほど、おごそかに、まずこう言う。「われわれは、戦争を望んでいるわけではない」
戦争および戦争に伴う恐怖は、たしかに常識的に考えて歓迎すべきものではない。よって、まずは、平和を愛していると見せかけるほうが得策というわけだ。
第二次世界大戦も例外ではない。連合国が平和を目指していたと聞いてさほど意外に思わない者でも、枢軸国側もじつはまったく同じことを言っていたとなれば、少なからず驚きがあるのではないだろうか。
たとえば、1941年12月、太平洋戦争が始まったとき、日米それぞれの国で流されたニュース映画を見比べてみるとはっきりする。東条首相とローズヴェルト大統領は、開戦に際し、ほとんど同じ言葉を使って演説をおこなっている。
どちらも、平和を望み、開戦には決して積極的ではないと語っているのだ。
ローズヴェルトは、しばしば平和を語っている。
だが、ヒトラーも、同じことを言っているのである。
ゲーリングも、1939年8月初旬、こう語っている。
「ドイツは戦争を望んではいない。国民は、総統の決断に無言の信頼を寄せ、平和を待ち望んでいるのだ。だが、一方で、もし、この平和を拒絶し、欧州を戦火にまきこもうとする者があれば、われわれドイツは防衛のために立ちあがるだろう」
ヒトラーは、イギリス政府に書状を送り、平和への意志を表明している。彼は「ドイツ政府は独英間の理解、協力、友愛を心から望んでいる」と書いているのだ。
1939年9月1日、ヒトラーはポーランド侵攻に際し、ドイツ国会を召集した。彼は、ここでも平和主義をかかげ、平和維持のための努力について語っている。
「私はこれまで、平和的な方法で、状況建て直しを図ろうと努力してきた。われわれはいつも武力に訴えるなどと言われているが、それはまったくのでたらめだ。
あらゆる機会をとらえ、私は一度ならず、交渉によって必要な改善策を得ようとしてきた。オーストリア、ズデーテン、ボヘミア、モラヴィアとの問題も平和的な解決を試みたが、惜しむらくは結果を得ることができなかった。
ドイツとポーランドの間に平和的な協力関係を築くためには、方向転換が必要なのである」
いまさら驚くこともないだろうが、対する連合国側も、図式はまったく同じである。
1939年9月2日、エドゥアール・ダラディエ仏首相は、開戦を宣言した。9月3日の「国民召集令」でも、平和維持を強調する。
「私は、最後の最後まで一瞬たりとも休むことなく、和平のために奔走したと自信をもって申し上げます」
すべての国家元首が、すべての政府が、こうした平和への意志を積極的に口にするとなれば、かなりの頻度で戦争が起こってしまうのはなぜだろう、という素朴な疑問が、当然のことながらわきあがってきます。
この疑問に答えるのが、戦争プロパガンダの第二の法則です。
われわれは「いやいやながら」戦争をせざるをえない。
というのも「敵国」が先に仕掛けてきたからであり、われわれは「やむをえず」「正当防衛」もしくは国際的な「協力関係」にもとづいて参戦することになったのである…。
しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
両陣営とも、相手国が流血と戦火の悲劇を引き起こそうとするのを抑止するために「やむをえず」参戦するという矛盾した構図は、第一次世界大戦時にすでに存在しています。もちろん、第一次世界大戦以前の戦争にもあてはまります。
どの国も、戦争を終わらせるために戦争をしなければならないという矛盾に目をつぶり、今度こそ「最後の最後」だと主張するんです。
ダラディエ仏首相は、9月3日の「国民召集令」のなかで語ります。
「かねてより、多くの人が世界平和を求める声をあげていたにもかかわらず、ドイツは、心ある人々の声にいっさい耳を貸そうとはしなかった。戦争が不可避である以上、われわれは戦う」
戦争が始まったすべての責任は敵国にあるのだ。
さらに、当の敵国側の当時の資料を眺めれば、ドイツ、そして日本の側でも「連合国側に戦争の責任がある」という論理が用いられていました。
こうして、非常に好戦的な者たちこそ、みずからが哀れな子羊であるかのようにふるまい、争いごとの原因はすべて相手にあるのだと主張します。
多くの場合、国家元首は、これは正当防衛なのだと世論を説得します(あるいはまた、みずからにもそう言い聞かせているのかもしれません)。
もうひとつ「プロパガンダを支持しない者は、裏切り者または敵のスパイとみなされる」という法則【第10章】があります。
これらの法則はすでによく知られたことであり、戦争が終わるたびに、われわれは、自分が騙(だま)されていたことに気づきます。
そして、次の戦争が始まるまでは「もう二度と騙されないぞ」と心に誓うのです。
だが再び戦争が始まると、われわれは性懲りもなく、また罠にはまってしまうのです。
あらたにもうひとつ法則を追加しましょう。
「たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれはまったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ」
2002年1月
ブリュッセル自由大学歴史批評学教授 アンヌ・モレリ
そうやって私たちはこれからもずーーーっと騙されつづけるわけなんですね・・・。
そうならないためには、どうすればぜひご一読をおすすめします。
参考文献
人間というものは、誰しも、みんなのためを思って行動しているのだと思いたがる。
ヴォルテール(1694~1778)の著書にも、こんな記述がある。
天使イチュリエルの命令で、スキタイ人バブークは、インド軍とペルシャ軍の駐屯地をそれぞれ訪れ、話を聞いた。
あるペルシャ人兵士がこう言った。
「どちらの陣営も、人類の平和だけを願っていると言いながら、何年にもわたって奇妙な理由で戦い続けている。
なぜ人が殺しあうのか、はっきりとわかっている暴君はまず存在しない。殺人、放火、破壊、略奪が増えてゆき、世界中が苦しんでいる。しかも、激しさを増すばかりだ。
われわれの代表も、インドの代表も、人間の幸福のためだと言いつづけている。抗議行動が起こるごとに、町が廃墟と化し、地方が荒廃していく」
どんなにさもしい人間でも、利己的で卑劣な動機をわざわざ明かそうとはしない。むしろ、善意や愛他主義を装うだろう。そして肯定的なイメージを保持するために、まず自分を納得させる。
まず自分を騙すのだ。
米大陸に上陸したスペイン人征服者はキリスト教布教を語り、チリの拷問者たちは反マルクス主義の戦いだと主張した。
自分を納得させることができたら次は世論の説得だ。
これは高尚な目的のためなのだと訴える。「悪党」「犯罪者」「殺人者」に対抗するために立ちあがるのだ、と。
ここにも戦争プロパガンダの法則がある。
この戦争は「文明人」による「野蛮人」への制裁だと主張することだ。
そのためには、敵側が、積極的に残虐行為を繰り返していると訴える一方、味方の犯す過ちは、不本意なものであると国民に示さなくてはならない。われわれの大義は特別なもの、正真正銘倫理的なものである。つまり、これは聖戦であり、まさに十字軍の戦いなのだと。
「戦争において、もっとも嫌悪すべきものは、戦争によって生じる廃墟ではなく、戦時にあらわれる無知と愚かさだ」
疑うのがわれわれの役目だ。武力戦のときも、冷戦のときも、あいまいな対立が続くときも。