演技とは行動だ! プラス 役の掘り下げ
行動のリアリティ
マイズナーはいった。「さて、行動のリアリティとはどういう意味だろう。」
若い男性がいった。「何かするときは、しているふりをするんじゃなくて、本当にすることです。」
「そして、役を演じているようにしないことだ。ピアノを弾くときは、最初にふたを開けるだろう。つまり、音楽的にいえば、ピアノのふたを開けることは、行動のリアリティだ。他に質問はあるか。」
「あなたは、私たちが本当にできるものを与えました。他の人を観察したり、車の音を聞いたりすることです」レイがいった。「そして、もし本当に車の音を聞くことや、人を見ることに集中したら、役を演じているかどうか心配する必要はありません。集中してやっていることがあるからです。」
「それが役というものだ。」
「それが役ですか」レイがたずねた。
「そうだ。」
「そうすると、役になって演じる必要はない。何かをやっていれば、確実に役が現れるということですね。」
「そのとおり。いいか。すべての劇は、行動のリアリティに基礎をおいている。リア王が天に向かってこぶしをふるわせることさえ――俳優が自分の運命を激しく非難していることに基礎をおいている。わかるか」
マイズナーは間をおいた。
「今は信じられないだろうが、もっとよくわかるようになる。心配することはない。自然に明らかになる。だんだんと明確になってくる。それが演技の基礎だ。」
「何かするときは、しているふりをするんじゃなくて、本当にすること」については「スタニスラフスキー理論メソッド演技」のエピソード.2で詳しく説明しています。ぜひどうぞ。もちろん無料です。
「役になって演じる必要はない。何かをやっていれば、確実に役が現れる」
これについて、生意気なのを承知で私の考えを述べさせていただきます。
監督 (演出家) さんが、ふだんの素のまんまの自分とほとんど変わりない役に割り振ってくれたなら、役についてあれこれ考えなくてもいいと思います。
しかし、ふだんの自分とかけはなれた性格の役【たとえばテロリストとか】を割り振られた場合はどうでしょう。
勧善懲悪の単純なアクションものならいざ知らず、社会派の作品ともなると、役の内面を深く掘り下げて、「なぜこの役の人物はこのような考えを持つようになってしまったのか、彼にどんな過去があったのか」などを考えて、役に近づいていく作業が必要になってくると思いますよ。
ただし、こうも考えられます。
「役を演じているようにしないことだ」
これは、ウタ・ハーゲンが「“役を生きる”演技レッスン」で言及した、「描写の演技」(オーバーな演技)について語っている、とも解釈できます。
マイズナーはここで、「いかにも自分は演技をしています」みたいなオーバーな演技ではなく、「あくまで自然な演技を目指しましょう」と
役の人物を掘り下げる作業については、他の機会に譲って、ここではあくまでも自然な演技にテーマを絞(しぼ)って語っていたのかもしれません。
そう解釈すると、マイズナーの論理は理にかなっていることになりますね。
いろんな角度から物事を見つめて、たくさんの考え方を持った声優になってください。応援しています。
参考文献
「サンフォード・マイズナー・オン・アクティング ネイバーフッド・プレイハウス演劇学校の1年間」 而立書房
「“役を生きる”演技レッスン リスペクト・フォー・アクティング 」 フィルムアート社
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