鵜と生産者の姿と、プロレタリア文学
時代の祝福 川端康成
篝火(かがりび)を見て古めかしい抒情詩を歌うようなことは、私達文学者の間では時代後れであるばかりではなく、時代の良心に背くものとされています。
篝火を見るよりも鵜(う)を見よであります。
けなげに早瀬へ潜って鮎(あゆ)を捕える鵜は、自分の獲物が咽(のど)を通らないように首を絞められている。そして飼主に口の中の魚を搾(しぼ)り出される。だから何十匹の鮎を捕えても彼は飢えている。
これは今日の多くの生産者の姿そっくりである。これは今日流行の鵜飼の見方である。
——しかし諸君は自分が鵜であることに十分満足していらっしゃる。諸君の顔がどうやら鵜に見えて参りました。
人間はすべて鵜である。
どうも岐阜というところは私にろくでもないことを考えさせるとみえますな。
「時代の祝福」は未発表の小説で、新潮社版「川端康成全集」第24巻(1982/10発売)に初収録された作品です。
ただ小説の中に、関東大震災 1923年(大正12年)の記述『——私は先年の東京大地震の直ぐ後で浅草の小学校の屋上庭園へ登ってみたことがありました。』があることから、そのころに書かれた作品なのでしょう。*1
ちょうどそのころ、1920年代から1930年代前半にかけて流行した文学に「プロレタリア文学」があります。
プロレタリアとは、賃金労働者のこと
プロレタリア文学は会社の経営者に、安い給料で悪い条件で働かされて苦しい生活を送っている労働者のことをテーマにした文学です。
虐(しいた)げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたものです。昭和の初めに流行しました。
小林多喜二の『蟹工船』はプロレタリア文学の傑作といわれています。
安い給料で過酷な労働をする「蟹工船」の貧しい労働者と定職につけない現在のフリーターの状況が似ているとされ、若者を中心に再び読まれています。
今回抜粋した「時代の祝福」にも「プロレタリア文学」の影響が感じられますね。
いろんなことを知るのって楽しいね。それでは、また。
参考