映像が思い浮かぶ文章とは
川端康成の文章は映画的だ、映像が脳裏に浮かんでくる、といわれます。*1
これなんか正にそうですね。
化粧と口紅 川端康成
上野駅。
そこに発車を待っている汽車で、留伊子達のレヴュー団は旅立つのだった。
陸橋の上からは、そのトタン屋根から頭を少し出した機関車だけが見えて、プラット・ホームのあわただしい下駄の音が聞えて来た。
彼女は上野公園を歩いているうちに、早く約束の陸橋へ来てしまったのだった。
夏子は足の下まで、白い煙にもうもうとつつまれてしまった。
「煤煙(ばいえん)くさい天女、虹のかけ橋か紫の雲のかわりに、コンクリートの橋に乗った。」
そんなことを思って笑いながら、しかし、目も細めず、息もふさがず、近代の機械が吐き出す霧のなかに立っていた。
石炭の煙のにおいが、胸に満ちて来る。
ガソリンのにおいのはかなさとはちがって、むせぶような人恋しさ、それになんにも見えない彼女の足の下を、次第に力強く早まってゆく車輪のとどろきが、どっどっと血管に流れ込んで来るようだ。遠くで花火が聞える。
石炭の霧はもう消え去って、客車の屋根が恐ろしい甲蟲の列のように動いていた。
八時何分かの仙台行だ。留伊子も乗っているのだ。
線路にはかなく揺れてゆく窓の明り、長い旅路に黒ずんだ屋根、夏子は留伊子の身の上がわがことのようにいたましかった。
ふと涙っぽい娘心にとらわれていると、黒い列車の屋根は陸橋の下に吸い込まれて行って、そのあとの線路に、信号燈が桔梗色にぽつりぽつり咲いていた。
参考文献
川端康成全集 第五巻 新潮社