言葉はいかに人を欺くか
ウソやミスリードを見抜き追及する、弁護士についての興味深い記述を見つけたので紹介させていただきます。
ブロンストン対アメリカ合衆国
サミュエル・ブロンストンは、個人と会社の両方の銀行口座を複数の国に持っていた。彼の会社の破産審問で、ブロンストンと弁護士との間で次のようなやりとりが行われた。
弁護士
ブロンストンさん、スイスの銀行に銀行口座はありますか。
ブロンストン
いいえ。
弁護士
これまで一度もありませんか。
ブロンストン
会社は半年ほど前にそこに口座を持っていました、チューリッヒに。
過去にブロンストンは個人名義でスイスに口座を持ち巨額の預金があったので、偽証罪に問われた。
偽証罪の根拠は、二番目の発話が文字通り真実である一方で、ブロンストンがスイス銀行に個人口座を持ったことがないと周到かつ巧妙にミスリードして伝えている点だった。
法廷で証人は、弁護士が提出する尋問に答えるよう要求される。
当事者対審主義の法制度においては、証人の回答に納得できない場合、さらに尋問で追及するのが弁護士の仕事である。
弁護士は訓練を受けた専門家であり、こうした問題に精通している。
証人が問われた尋問に答えていないと気づき、正確に尋問に答えるよう強制することこそがまさに弁護士の仕事である。
つまるところ、ブロンストンに尋問している弁護士には、聞き手をミスリードする言明に対してブロンストンにさらに圧力をかける責任があったのだ。
ミスリードとは
「噓をつくことなく誤った理解に誘導すること」をいいます。 *1
「嘘 lie」と「ミスリード mislead」
ある優しい老婦人が死の間際に自分の息子が元気か知りたがっているとしよう。あなたならどうするか考えてみてほしい。
あなたは昨日、彼に会ったが (その時点で彼は元気で幸せそうだった)、その直後にトラックにはねられて死んだことを知っている。
1.昨日会った時、彼は幸せで元気そうでしたよ。
2.彼は幸せで元気そうにしています。
もしあなたが大多数の人と同じなら、2よりも1を発話する方が善いと考えるだろう。
なぜなら、1の発話が単なるミスリードであるのに対して、2の発話は噓であるからだ。
その理由は、1が言うことは真実であるが、2が言うことは誤りというものだ。
この問題を 別の異なる視点 から深掘りしてみましょう。
読者が大抵の人と同じなら、1の発話が2よりも道徳的に優れていると判断するだろう。
ここで私は、この判断が誤りだと示唆する。
1が善いと思う明らかな理由の一つは、もちろんミスリードという行為が嘘という行為よりも善いと (私に言わせれば、誤って) 信じていることにある。したがって、この老女に噓をつくよりも彼女をミスリードするほうが善いと判断することに驚きはない。
だが、これがすべてではないことが、この例に少し手を加えるだけで分かる。
ここで、私がこの老女の幸せに全く関心がないと想像してほしい。
しかし私は彼女の息子の遺産受益者である。
もし彼が母親の相続人のままなら、私は老女の遺産を相続することになる。
だがもし息子が死んだと知ったら、老女は遺言を変更し、私は彼女の遺産を相続できないだろう。
ところが私は、嘘をついたことが発覚した場合に財産の相続権が法的に疑問視される可能性を少し心配している。
そこで私は、彼女が息子の健康について尋ねたときに1を発話する。なぜなら、1は嘘ではないからだ。
このケースを考えるなら、私たちの判断はかなり異なるだろう。
2を発話するよりも1を発話する方が道徳的に善いことをする、という直感を持つ可能性ははるかに低いだろう。
このように、私たちの判断は、嘘という行為がミスリードという行為よりも悪いという誤った思い込みのままでは決定されはしないのだ。
さまざまな視点から物事を見つめると、今までは気づかなかったものが見えてきます。
裁判劇・法廷ドラマに弁護士は欠かせません。善良な弁護士もいれば、悪徳弁護士も登場します。皆さまの役作りのお役に立てれば幸いです。
引用
言葉はいかに人を欺くか 慶應義塾大学出版会
補足
この本が素晴らしいのはもちろんなのですが、
似たような内容の本では「ご飯論法」の上西 充子さんの著書、
「呪いの言葉の解きかた」 晶文社
「国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み」集英社クリエイティブ
「政治と報道 報道不信の根源」扶桑社新書
のほうが、自分にはわかりやすくて読みやすかったことも付け加えておきます。
おまけ
言葉はいかに人を欺くか 訳者解題
通常、私たちは嘘をつくことに罪悪感を抱くだろう。冗談と違って、嘘をつくには能動的、積極的に相手を騙す必要がある。
それに対して、ただのミスリードでは道徳的に欺瞞を自ら積極的に行わず、誤解を生じさせるだけに思える。できるだけ他人を騙さないよう努力するので、嘘に比べて好ましいと感じるかもしれない。
だがソールはこの倫理的な価値判断は再考すべきだと論じる。
嘘もミスリードも、人を裏切るという意味とその効果においては変わらない。ただしミスリードでは、ミスリードする側にのみ非があるのではなく、聞き手が自分自身で間違った解答にたどり着く点で部分的に責任を担うという考え方もある。
ミスリードする人は自分の手を汚さずに、つまり噓をつかずに、嘘と同じ成果を得ることができる。
それどころかミスリードする人は、自分が相手を欺いたのではなく、相手が勝手に誤解したのだから、自分は悪くないと安心感を得るかもしれない。
自分の行いを正当化する自己欺瞞であるなら、嘘と比べ、より反道徳的だとも言える。
ソールは数々の事例を挙げ、嘘とミスリードの間にある道徳的な区別をあぶり出し、ミスリードの方が善いという常識を疑い、倫理学に新しい議論と知見を提供する。
両者 (嘘とミスリード) の区別には、言語哲学の中心概念である「言われていること」や、言葉通りの意味、言外の意味が関わる。
哲学だけでなく、ありふれた会話や政治の中で「言われていること」とは何かという問題は、自明のようでいて、実は共通した理解がない。
近年の言語哲学は実践的な意義が際立っている。
日常の平穏は脆く、危機は潮汐のようには間を置かない。浸食の波は絶え間なく浜に打ち寄せ、気づけば海岸線が激変している。
波を一括りにせず、飛沫の一つ一つが立てる音に耳を澄ませ、意味を知らねばならない。
波のうねりにかき消されても、私たちが声を上げ続ける意義と効果をソールは示す。一人一人が絶えず声を上げねば、自由や平等、人権、民主の理念は実現も維持もされないことを本書で痛感する。
だが、か細い一人の声に現実を変える力がある。それに本書は力を添える。
この翻訳が日本での議論に多少とも貢献できるなら幸いである。
引用
言葉はいかに人を欺くか 慶応義塾大学出版会