伊豆の「踊子との」その後。
伊豆の踊子
出立の朝
乗船場に近づくと、海際にうずくまっている踊子の姿が私の胸に飛び込んだ。
傍に行くまで彼女はじっとしていた。
黙って頭を下げた。
はしけはひどく揺れた。*1
踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。
私が縄梯子に捉まろうとして振返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。
はしけが返って行った。
ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。
汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えて行くまで、私は欄干に凭れて沖の大島を一心に眺めていた。
私はカバンを枕にして横たわった。
涙がぽろぽろカバンに流れた。
頬が冷たいのでカバンを裏返しにした程だった。
「何か御不幸でもおありになったのですか。」
「いいえ、今人に別れて来たんです。」
私は非常に素直に言った。
泣いているのを見られても平気だった。
私は何も考えていなかった。
ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。
船室の洋燈が消えてしまった。
真暗ななかで、私は涙を出委(でまか)せにしていた。
頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零(こぼ)れ、その後には何も残らないような甘い快(こころよ)さだった。
(大正十五年一、二月「文藝時代」)
哀愁ですね・・・。
はたしてこれが、私と踊子2人にとって〝恋〟と呼べるものなのかどうかも分からない、甘く切ない旅の思い出、それが「伊豆の踊子」です。
さあて・・・
「伊豆の踊子」は〝事実をもとにした小説〟です。この2人は、その後どうなったのでしょうか。
伊豆の思い出
私が初めて伊豆へ行ったのは、「伊豆の踊子」に書いた旅で、二十の時だった。
「私は二十歳だった。高等学校に二年に進んだばかりの秋半ばで、上京してからの初めての旅らしい旅立った。」と書いている。
そのころは七月に進級して、九月から新学年が始まるのであった。
昭和八年に書いた「『伊豆の踊子』の映画化に際し」には、
「あの時十四であった踊子は、今年もう二十九になっている。
思い出になによりあざやかに浮ぶのは、寝顔の目尻にさしていた、古風な紅である。
あれが彼女等の最後の旅であった。
あの後は、大島の波浮(はぶ)の港に落ちついて、小料理屋を開いた。
一高の寮の私との間に、しばらく文通があった。」
「しばらく文通があった。」とは言い過ごしで、踊子の兄から二三度葉書が来ただけであった。
向うでも私が大島へ来るものと信じ切っていて、正月に芝居をするから手伝ってほしいなどと書いてあった。
下田で別れる時は私も冬休みには大島へ行って再開出来るものと信じ切っていた。
しかし金がなくて行かなかった。
なんとかすれば行けたのだろう。そのなんとかをしなかった。
その後東京の花見時の飛鳥山へ踊りに来たという葉書をもらったように思う。島へ帰ってからのたよりである。
「伊豆の踊子」が私の作品のうちで最も愛好されるにつけ、作者はむしろ反撥を覚えて、伊豆の作品のなかでも
「春景色」や「温泉宿」の方がいいと言いたくなったが、近ごろ細川叢書に入れる時読み返してみて、久しぶりで作者自身この作品に素直に向えた。
昭和二十四年五月二十九日
事実って、けっこうあっけないですぅ・・・。
だからこそ、夢の世界で思う存分遊べる小説って、いいなって思います。
引用
伊豆の旅 中公文庫
*1:
これは踊子と私、2人の心の葛藤を、はしけに例えて表現しています。「2人の心はひどく揺れた」という意味ですね。