がん治療とメソッド演技
TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」の〝相談コーナー〟で、スーさんがリスナーさんのお悩みに答えた内容が
わたしがガン治療で実践している方法と、ほとんど同じだったので、紹介させていただきます。
お父様が (癌だと)「告知されてない」っていうけど、分かってますよ。
命の老い先短い人間は、「まわりにそれを言ったら、まわりが動揺する」と思うから言ってないだけで、分かってると思いますよ。
うちの母親も (癌だと) 知らなかったけど、絶対分かってたと思うし・・・。
あのう・・・。
近親者を亡くしたっていう方・・・
つい最近亡くしたとか、ちょっと前に亡くしたって方にとっては、
これから私がする話ってのは、ある種の「フラッシュバック」になっちゃうかも知れないんで申し訳ないんですけど・・・。
「あ、もう、なかなか永くはないな」っていうのが分かるぐらいの闘病をしている場合、あるタイミングから、
全員が〝空台本(からだいほん)〟を読みだすんですよね。
もう、エンディングは「死」だっていうのが分かってるんです、全員。
だけど、そのバッドエンディングに行かない「偽物(ニセモノ)の台本」を皆がね、いつの間にか共有して、自分のページを読みだすんですよ。
「ああ、今日はたくさん食べられたねえ」とか
「昨日より顔色いいんじゃない」とか
みんながそうやって〝死〟っていうところを避けて、明るくふるまって、舞台の上にあがっているときには、それを噯(おくび)にも出さないっていうのを、本人もやります。当事者も。
で・・・そういうところを経て、その先に、お別れがあったりするわけですけれども・・・。
スーさん、すごい。よくわかってる。
実はわたしも、がんだと正式に告知される前の、何日かの間に、
わたしの診察をした、何人かの病院スタッフほぼ全員が、みんな同じように顔色を変えたり、うろたえたりするのを見て、「これはガンだな…」と、うすうす気がつきました。
現在の私は、ふたつの——あるいは、もっとたくさんの——人格に分裂しています。
「なにがなんでもガンを治してやる!」という〝前向きな自分〟と
「どうせ死ぬんだから、残された人生を悔いなく楽しもう」という〝のん気な自分〟にです。
これは、スタニスラフスキイ「俳優修業」で紹介されている『自分を観察する、もう一人の自分』の応用でもあります。
自分を観察する、もう一人の自分
俳優のやらなければならないことは、こう問うことだ。
自分は芝居の特殊な箇所に対する自分の役の態度を確信しているか?
自分は役の行動を本当に感得しているか?
いろいろな想像のディテールを変更したり増補したりすべきであるか?
ある俳優が、その舞台における能力を完全に所有しているものと仮定したまえ。彼はその構成部分を持ち役から逸脱することなく完璧に解剖することが出来るほどである。
やがて些少の誤差が生じる。
ただちに俳優はどの部分が狂っているかと調査する。彼は過失を発見しそれを訂正する。
しかし、その間中、彼が自分を観察している間も、彼はやすやすと持ち役を演じ続けることが出来る。
サルヴィニが言っている。
『俳優は舞台で生活し、泣き、笑い、しかも、その間中、彼は自分の涙や笑いを監視している。この二重の機能、この生活と演技との均衡、それがこの芸術をつくるものである』
冷静に、そしてある意味のん気に、自分を見つめている〝もう一人の自分〟を創ることで、
末期がんという状況でも、ストレスに押しつぶされずに日々を過ごせているんじゃないかと、わたしは思っています。
メソッド演技も〝がん治療〟に役立ちますね。(笑い)
それでは、また。