絶滅収容所
アウシュヴィッツ
ナチ・ドイツは、政権獲得後すぐにドイツ南東部ダッハウに最初の強制収容所をつくり、政治的敵対者を法的手続きなしに拘禁することを可能にした。
まもなく拘禁対象は、ユダヤ人やロマ【ジプシーの蔑称】などナチが人種的に劣等だと見なす集団「民族共同体異分子」「反社会的分子」へと拡大される。
強制収容所の数は増大し、1941年から1942年半ばには、占領下ポーランドの六ケ所に絶滅収容所がつくられた。
それは、ナチが労働力にならないと見なした囚人たちを大量に殺戮するための施設であった。
これは本当にあったお話です。
絶滅収容所
ポーランド南部のアウシュヴィッツ強制収容所は、隣接の軍需工場と最新の絶滅施設をもつ40平方キロメートルの巨大な複合体であった。
貨車に詰め込まれて到着した囚人たちは、到着後すぐに選別され、労働力側に入らなかった人びとはガス室で毒ガスによって窒息死させられた。
脱衣所と密閉されたガス室と死体焼却所が併設されていた。
殺害のプロセスは徹底的に合理化され、殺害効率をあげることがめざされた。近代技術の粋を集めたいわば工業的な大量殺戮であった。
労働力にならない人たちって、つまり・・・。
年をとって働けなくなったもの、または病気、事故などにより働けなくなった人たちも「ガス室」というわけね。
現在は、高齢者の運転ミスによる事故がよく報道されています。つまりどんなに気をつけていても、事故に巻き込まれる可能性は誰にでもあるってこと。ナチスみたいな人たちが政権とったら最悪ね。
だけど頭脳による生産性もあるよ。たとえ働けなくなっても頭がよけりゃ・・・。
つまり東大に合格しなかったらガス室?それともハーバード大学かな?あなたの理論なら結果そうなるよね。
人間による人間の無用化。人間の尊厳の崩壊。それは理解を絶する「けっして起こってはならなかった」ことであり、その事態を直視することは地獄を見るようなものだった。*1
今回は「優生思想なんかふざけるな!」といったお話でした。いい世の中になってほしいですね。それでは、また。
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優生思想とは
優秀な人類を後世に遺(のこ)そうという思想。人種差別や障害者差別を理論的に正当化することになったといわれています。
参考文献
ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 中央公論新社
ヒトラーの科学者たち 作品社
Voice actor laboratory 声優演技研究所
P.S.お馬さん【サラブレッド】の世界は優生思想
レースで勝てる優秀な馬をつくるには【足の速い馬】の遺伝子を選別する必要があります。
そこで、レースで何度も優勝したお馬さんは【種馬】としてメスと交尾する権利が与えられます。
足の遅い「勝てない馬」は交尾させてもらえません。
でもここで問題が起こります。レースで何度も優勝したお馬さんでも【メスにもてる】とは限りません。
勝てない馬でも、メスに「メチャクチャもてる」という才能がある場合があるのです。
まあ、レースに勝てるかどうかは人間にとっての価値基準ですから、馬には当てはまらなくてトーゼンですけどね。
そこでメスにその気になってもらうため足は遅いけどモテる馬の登場となるわけです。
だけどメスがその気になっていい雰囲気になったタイミングで…
はいそこまで
足の速い勝てる<もてない>馬と交代させられてしまうんです。メスにもてても<勝てない馬>は恋愛は禁止なんです。
これをお馬さんの世界では「当て馬」と呼んでいます。
相思相愛の仲となったとたんにメスと引き離されてしまうモテモテ馬くんのストレスは相当なものらしく「ひひん!ひひん!」と暴れるそうです。
これを何度もくりかえすと、頭がおかしくなってしまうモテモテ馬くんもいるそうですよ。
以上、お馬さん<サラブレッド>の世界は優生思想というおはなしでした。
*1:
ポーランドはホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の主な舞台となり、290万人から300万人のユダヤ人が殺された。
次いでソ連。
両国だけで約400万人もの命が奪われた。
いずれもドイツが第二次世界大戦中に勢力下においた地域のユダヤ人であり、ホロコーストが、東方に「生空間」を求めたドイツの侵略戦争と並行して行われたことがわかる。
ドイツのユダヤ人はといえば、ヒトラー政権が誕生した1933年の時点で国内に暮らすユダヤ人は約50万3千人、そのうち国外に移住できずに犠牲となった者が約13万5千人、それに併合したオーストリアのユダヤ人犠牲者を加えて、約18万5千人が殺害された。ヨーロッパ中に広がるホロコーストの犠牲者全体の約3パーセントにあたる。
次に、ナチ・ドイツが手を染めた残虐な蛮行はユダヤ人に対するものだけではなかった。
ユダヤ人の他に、心身障害者や不治の病にある患者、ロマ(ジプシー)、同性愛者、エホバの証人【注】など、民族共同体の理念・規範に適合しないとみなされた人びとに対しても、徹底した迫害が行われていた。
なかでも、第二次世界大戦の開戦(1939年9月)に前後して始まった、心身障害者・不治の病にある者を標的とする「安楽死殺害政策」によって、ドイツ国内(オーストリアとズデーテン地方を含む)で少なくとも21万6千人、ポーランドやソ連などヨーロッパ全体では約30万人もの生命が奪われたといわれる。
頁254-256
ヒトラーに抗した白いバラ
「アンネの日記」と同じ時代…
ナチス・ドイツのヒトラーに抵抗したドイツ人の女学生がいました。
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戦(いくさ)の際、自分が正しいと思う方に味方することができたら、どんなにいいでしょう。
ドイツ人が、ただ自分の国だからということだけでかたくなに自分の国を守るのも、まちがっていると思います。感情はしばしば判断を誤るものです。
これは本当にあったお話です。
ゾフィーは、兵隊として召集されたボーイフレンドに、かなり厳しい内容の手紙を送っています。
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「人間の生命が、他の人間の手によってこれから絶えず危険に陥れられるなど、私にはとても理解できません。本当にわかりません。恐ろしいことだと思います。どうか祖国のためだなどとは言わないでください。」
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「正義に身を捧げる人間などほとんど見られないのに、正義が勝つことなど期待できるでしょうか?」
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「国民に対する軍人の立場は、父親と家族に忠誠を誓う息子のようなものだと私は思います。父親が他の家族に対し不正を働き、いざこざを引き起こしても、息子は父親に従わなければならないのです。私は身内に対し、このようにまちがった理解を示すことはしません。私は正義は常に何ものにも優先されるべきもの、時にセンチメンタルな帰属性をも超えるべきものだと思います。」
ゾフィーの物語は「白バラの祈り/ゾフィー・ショル、最期の日々」というタイトルで映画化もされています。
図書館の視聴覚室で見ることができますよ。
またゾフィーはヒトラーだけでなく、ユダヤ人迫害にも反対しているんですね。
悪と戦ったという意味でも同じですね。
Voice actor laboratory 声優演技研究所
P.S.
この本の151ページ目に興味深い記述があります。
「ヒトラーとナチ・ドイツ」講談社現代新書によると、ナチスの啓蒙宣伝省は活発なプロパガンダを展開した、とあります。*1
そうなると、このラジオ放送はドイツのものではなく、イギリスやスイスの放送を受信した可能性がありますね。*2
ブレヒト戯曲「第三帝国の恐怖と悲惨」によると、当時のラジオは真空管の数の多いほど性能がよく、四球のものは「スーパー」と呼ばれ外国の電波もよくキャッチできた。大衆むけの「フォルクスエンプフェンガー」というラジオは一球で国内放送しか入らなかったそうです。
参考文献
ブレヒト戯曲全集 未来社
また、「ゾフィー21歳 ヒトラーに抗した白いバラ」に登場する【ナチスに協力したドイツ人たち】は、良心の呵責(かしゃく)などはまったく感じておらず、自分の義務を果たしただけ、と思っていたようです。
つまり、悪いことをしたとは思っていないんです。
いったいゾフィーがどんな犯罪をおかしたというのでしょう?彼女はただ戦争に反対しただけなのに…。
いろんなものが見えてくる本です。おススメします。
~君たちは若い。君たちの課題は年をとることだ。死刑の宣告をうけたらどうしますか?国家権力による死の宣告も医師による死の宣告も同じですか?どうやって年をとりますか?~
*1:啓蒙宣伝省の目的は、ヒトラーを新時代にふさわしい国民的指導者に祭り上げ、そのもとで進む国家と社会のナチ化が成果をあげるよう、大衆の精神面に働きかけることだ。
ゲッベルスはこれを「精神的総動員」と呼び、ラジオ・新聞・出版・映画から文学・音楽・美術・舞台芸術にいたるまで、すべてのメディア・文化活動を監視統制しながら、活発なプロパガンダを展開した。
プロパガンダは単なる宣伝でも広報活動でもない。
それは政治指導者・為政者が特定の情報を大衆に伝え、大衆の行動をある方向へと誘導することだ。
自らに不利な情報はいっさい伝えず、有利な情報だけを誇張、潤色、捏造もお構いなしに発信し続け、大衆の共感を得る。
敵を仕立て上げることも情報操作ひとつでたやすいことだ。
真偽を問わずネガティヴな情報だけを流し、マイナス・イメージを刷り込み、大衆の怒りを煽るという、ナチ党が弱小政党から巨大な大衆政党へ台頭するなかで鍛えあげた政治宣伝の手法が、いまや国の政策として実践されることになったのだ。
「ヒトラーとナチ・ドイツ」講談社現代新書より 頁193-195
*2:1940年7月1日
世界は刻々変化している。どんどん物がなくなっていくように思えるがラジオは常にあった。
そんなある日、ウィーンからの放送が途絶えた。
次いで、プラハ放送。それでしばらくワルシャワ放送を聞いた。やがてワルシャワ放送も途絶える。
コペンハーゲンとオスロからドイツ語だけの放送を開始。今や、パリからの放送もない。
西側民主主義諸国の中ではかろうじてロンドン放送が続いている。
あとどの位続くのだろうか?
自然な演技とは
リアルな演技とは?の姉妹編です。
「ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒」(1999年)で、ある声優が自衛隊員の役で出演したのですが「そんなに滑舌(かつぜつ)のいい自衛隊員はいない」と監督さんから注意されたそうです。
「アナウンサーなどの役ならまだしも、そんなにセリフの歯切れがいいと自衛隊員としては浮いちゃうよ。だから滑舌を濁(にご)して」ということなんですね。
ある戯曲の練習をしたときに
その戯曲は<立憲君主制国家>の軍隊を舞台にしていました。
立憲君主制って?
イギリスをイメージしてください。イギリスには王様がいますが、政治は選挙で国民から選ばれた議員が行っていますね。そういう世界の軍隊が舞台です。
その戯曲には、○○卿。指揮官。隊長。兵士。○○国王女。皇帝などが登場しました。
「誰が一番上の立場なのかを考えながら演技してみよう。セリフはどう変わるかな?」と話しながらの練習でした。
これは学校の人間関係でもそうです。
仲のいい友達と、いじめっ子に、同じ口調で会話をするのはむずかしいです。
つまり私たちは、つねに人間関係を意識して生活しているんです。それも無意識に。
ところが
「自然な演技を」といわれると「オーバーではない、棒ぜりふに近い感じの演技」というイメージだけが自分のなかでひとり歩きして…
【人間関係を意識しないで】誰とでも平等<対等>にセリフを交わす演技をしてしまうケースがあります。
そんな人間関係は現実には存在しません。つまりそれは、自然な演技とはいえないんです。
まとめますと
1.人間関係を意識する。
2.滑舌などは、過剰に意識しなくても大丈夫。
そういう演技が「自然でナチュラルな演技」なんでしょうね。
いろんなことに興味をもって成長してまいりましょう。
Voice actor laboratory 声優演技研究所
悪役を考える
演劇に出てくる悪い人は、いい人のふりをしているだけ…
本当にそうでしょうか
ブレヒト演劇には【二重人格?】と思えるようなキャラクターがしばしば登場します。
「人のいい人情家なのに、ビジネスのことになると冷酷になる」という人物たちです。
黒澤映画「悪い奴ほどよく眠る」に登場する、岩淵副総裁(日本未利用土地開発公団副総裁)【演:森雅之】もそうです。
家族の前ではとてもいい父親なのに、人が死んでもなんとも思わない人物。それが岩淵副総裁です。
さて現実では?池上彰さんが解説しています。
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資本家は、ライバル企業と激しい競争をしていますから、少しでもコストを下げないと、倒産に追い込まれます。
資本家個人は、人間的にはいい人であっても、競争に勝つためには、冷酷な資本家にならざるを得ない。これが資本主義だというわけです。
池上彰 増田ユリヤ 「世界史で読み解く現代ニュース」 ポプラ社
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マルクスは「資本論」の最初で、別に資本家のひとりひとりが悪いわけじゃないんだよ、ということをわざわざ言っています。
いわゆる資本家の人たちは、人間的には、個人的には、あるいは家庭のお父さんやお母さんとしてはとってもいい人かもしれない。ただお金を増やそうと考えていると、どんな人でも結果的に資本家として冷酷なことをせざるをえなくなる。
だから個別に「あの資本家は悪いやつ」と言っているわけではない。経済の動きとして自然にこういうふうになってしまうんだよ、ということを言っているんです。
池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」集英社
まとめると、こうなります。
白雪姫などでは
1.人間の心は【善か悪】どちらか片方に偏(かたよ)っている。「白雪姫」の魔女は、ひつじの皮をかぶったオオカミ。いい人に見せているのはウソをついているだけ。
ブレヒトや黒澤明は
2.人間の心には【善・悪・その他】いろんなものが潜んでいる。場面に応じて、いい人に見えたり悪い人になったりする。
「白雪姫」の魔女は、白雪姫を騙(だま)して毒リンゴを食べさせます。いい人のふりをしているだけで本当は悪い人という考えかたです。
そういう作品がある一方で、レベルの高い演劇では、池上彰さんが述べているのと同じように、さらに踏み込んで人間を描いているんですね。
つまり人間の本質です。
知っているからこそ、いろんな表現ができる声優をめざしましょう。めざせ!演技派声優
久しぶりに生徒が赤ちゃんを連れてきてくれたので、スーパーボールを床や壁にぶつけて遊んだぞ。
あと5年もしたら「気味の悪いおっさん」とか思われて遊んでもらえなくなるでしょうからね。
あ・・・えーと、とっても楽しいレッスンが出来ました。それでは、また来週。
Voice actor laboratory 声優演技研究所
あたりまえをうたがえ。日常観察のススメ。
宮台さんの理論で日常を深読みして演技もうまくなろう。
ぼくはSFマニアだ。
SFはもともと社会批評をモチーフとする。
1960年代、バラードという作家が活躍した。
バラードは「ニューウェーブSF」の中心人物だけれど、彼がSF批評でくり返し述べてきたことがある。
SF小説と呼ばれるものは、たとえば300年後の世界をあつかうが、そこでは馬が宇宙船に、ピストルが光線銃に変わっただけで、そこでえがかれた人間のメンタリティや社会の動き方は、西部劇の時代のまま変わっていない。ちょっとおかしいんじゃないか――。
彼はこうもいう。SF小説と呼ばれる社会批評の多くが、われわれの「現在の感受性」をもとにして300年後の社会をえがいていて、ユートピア ( 理想郷 ) あるいはディストピア ( 反理想郷 ) だと賞賛したり批判したりして、「未来を裁く」。おかしいんじゃないか――。
300年後の社会が、われわれの「現在の感受性」からしたら批判されるべきものでも、300年もたてばわれわれの感受性はどのみち変わってしまう。
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これは、昭和を題材にした作品に「タバコを吸う人」が大勢出てきて問題になったことを思い起こせばわかりやすいです。ほんの数十年で人びとの感受性は変わってますね。
だったら、前のめりになって裁くのはやめ、どのみち変わるわれわれの感受性を想像するべきなのだ、と彼はいう。
ソーシャル・デザインの難しさ
実にするどい。よその国の事情も知らずに、その国のことをあれこれ批判するのがおかしいように、未来の時代の事情も知らずに、未来のことをあれこれ批判するのはおかしい。どのみち変わる感受性というバラードのいい方に、<歴史>へと開かれた敏感さを感じる。
ぼくはソーシャル・デザイナー (社会設計家) を自称する社会学者だ。バラードの批評は社会をデザインするのが本質的に難しいことを教えてくれる。
社会をデザインするとは「いま」の時点で「未来」を先取りすること。「いま」の感受性で「未来」を設計することだ。
もちろん「未来」の感受性を想像しようとする。でもその想像もどのみち「いま」の感受性に支えられたものだ。当然デザインは意図したとおりに機能しない。バラードが指摘した「人々の感受性の変化」があるからだ。だから天国だと思って、地獄を設計してしまう。
ということは、逆もあり得る。デザイン通りの社会にならなくても、「これでいいんだ」と人々が思う可能性もある。これは個人についてもいえる。自分の感じ方や考え方も変わってしまう。よかれと思って「未来」を先取りしても、絶望が待っていたりするし、逆もある。
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「海洋プラスチックごみ問題」もそのひとつだと思います。プラスチックのおかげで人びとの暮らしは便利になりました。だけど・・・。
たとえば、いま「自然環境が破壊されるのはよくない」とぼくたちの全員が思ったとしよう。でも300年後の人間たちがそう思う保証はない。とすると「いま、環境を守ろうとしていることの意味はなんなのだ?」というふうに、ぼくたちは謙虚に考える必要がないだろうか。
でも、一歩間違うと「なんでもあり」に結びつく危険がある。「自分にしろ、人類にしろ、感じ方も考え方も変わるわけだから、未来を先取りして考えるなんて意味がない」となりかねない。
これは、「人間どうせ死んじゃうんだ。だから何をやってもムダだよ」というニヒリズムの「親戚」だといえる。
でも「意味がないから考えない」ということも含めて人間の選択なんだ。「なんでもあり」という選択も「何もしない」という選択も含めて、<歴史>の中にとけこんでいく。意味がないと思うこと自体、<歴史>の前では、大した意味がないということだ。
バラードの<歴史>観で「意思」をくじかれるなら、君の理解が浅いんだ。「意思」をくじかれて「なんでもあり」になるのも、おろかな人間の選択のひとつにすぎない。そう思うと意欲がわく。<歴史>についての中途半端な理解は、君をおろかなふるまいに導く。
「知らぬが仏」っていうよね。ヘタにものを考えると頭がこんがらがって、かえって不安になっちゃう。だったら考えない方がいいんじゃないかって。でも、やっぱりものを考えるべきだと思う。理解が浅いからこんがらがるんだ。徹底して考えれば必ず勇気がわいてくる。
逆にいえば、当たり前のことは単純じゃない。君は単純でわかりやすいものが好きだろう。でもそれは感覚をマヒさせる。当たり前のことを見ないことにつながる。だからやがて後悔することになる。
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これはブレヒト演劇の「当たり前をうたがう」にもつながります。
当たり前だと思わせることで誰かトクをしてる人がいるのかな?「おれのものは、おれのもの。のび太のものも、おれのもの。当たり前だろう?」ドラえもんのジャイアンと違って、現実の当たり前は、みんなに【わからないように】かくされているのかも…?
一定の訓練をすれば、単純なものは、必ず気持ち悪く感じられるようになる。この場合、単純なものを好むきみは、何かをかくされてしまう。
かくしているのは、他人ではなく、君自身だ。
君自身が、ラクでいようとして、大切なことをかくすんだ。でも、それでいまがラクになっても、将来ラクに生きられる可能性は減る。君は、それでもいいのか。
頁201-206
「当り前は単純じゃない」と考えることで、いろんな深読みができるようになって、演技も上手になりますよ。
池上彰さんは、こう述べています。
労働者自身が、自分たちを守ってくれる法制度を知らず、劣悪な労働条件の下で働いている人は後を絶ちません。最近の「ブラック企業」などが、その典型です。
いい世の中になってほしいですね。
池上彰 増田ユリヤ 「世界史で読み解く現代ニュース」 ポプラ社
Voice actor laboratory 声優演技研究所
戦争映画のパターン
戦争映画ではお決まりの・・・
兵士A
「あいつを見殺しにはできません。自分が救出します!」
隊長
「まて。もう間に合わん」
兵士A
「とめないでください。行かせてください」
ほかの兵士たち
「私も行きます!わたしも!」
【内容】
何世紀にもわたり、軍隊における戦闘部隊の規模は150人前後だった。
古代ローマ軍の基本単位は「歩兵中隊120人」だったし、現代の軍隊でも歩兵中隊の平均的規模は180人だ。
組織されたチームとしてメンバーが力を合わせ、同胞の強み、弱み、信頼性を把握できる集団の規模の上限が、そうした人数なのだ。
現代の通信技術を利用すればより大規模な編成が出来そうなものだが、興味深いことに、現代でも軍隊の大きさは変わっていない。
ここからわかるのは、集団の規模を決める最大の要因はコミュニケーションではないということだ。もっと大切なのは人間の心の力である。
つまり、社会的関係を追跡し、一人ひとりを特定できる心の名簿を作成し、ネットワークのメンタルマップを描いて、誰と誰がつながっているか、その関係は強いか弱いか、協力的か攻撃的かといったことを探ることのできる力なのだ。
一般に100人の歩兵中隊は、緊密に連携する10人のメンバーからなる10の分隊で構成される。
こうすれば、各兵士は所属する分隊のメンバーを全員知ることができる。
軍隊は手を尽くして、分隊員同士がたがいに親交を深める後押しをする。そのおかげで、兵士たちはたがいのために進んで命を犠牲にするまでになるのだ。
世界中の人びとはさまざまな考え、信念、意見――さまざまな思想――を持つ一方で、同じではないにしても非常によく似た感情を抱くものだ。
社会的つながりを理解するカギとなる感情だ。すなわち、愛である。
なるほどおおお。こういうカラクリがあったんですね。軍隊は人間心理をしっかり把握(はあく)して、戦争のために使ってるんだ。
戦争映画・アニメなどで同じような場面を演じる時に、すっごく参考になると思いますよ。
いろんなことに興味をもって声優として成長してまいりましょう。
戦争には反対ですが、戦争映画は大好きです。いろんなことを知ることで、見えなかったことが見えてきます。いい世の中になってほしいですね。
参考文献
つながり 社会的ネットワークの驚くべき力 講談社
Voice actor laboratory 声優演技研究所
脳内記憶を呼び起こす!
アニメなどのアフレコ台本をわたされるのは一週間くらい前なんだけど
できるだけ早い段階で台本に目を通して、内容を頭に入れておくことをお勧めします。
そうしておくと、ある時ふっと何かの拍子に「あの演技は、こう表現したほうがいいな」と、思いがけず新しいアイデアが生まれてきたりするんですね。
同じ趣旨の考えかたは、昨日のブログで紹介した「レポートの組み立て方」にもありました。引用させていただきます。
記憶を呼び起こすにはどうするか?
私たちの脳の中には、自分自身の体験や、他から学んだ知識などの膨大(ぼうだい)な記憶が眠っている。
その中には、主題を展開し、裏づけるために役立つものがたくさんある。それらを呼び起こすにはどうするか。
私自身【著者・木下是雄氏】は、何日か――本格的な論文ならば何週間か、何か月か――のあいだ主題をあたためるのを常とする。つまり、始終そのことを考えているわけではないが心のどこかにそのことが潜んでいる。折に触れてそれが浮かび上がってきてしばらくのあいだ集中して考える――という状態をつづけるわけである。
<考えている>ときに念頭に浮かぶもの、こと、項目を、何でも、順序はかまわず考えることが大切だ。
眺めているうちに、落としていた項目がみつかったり、二つの項目のあいだに思いがけぬ関連を発見して新しいアイデアが生まれたりする。
こんなことを話しながらレッスンを行いました。
今日は台風を気にしながらのレッスンとなりました。近ごろの台風はとんでもなく強烈です。
日本近海の海水温が上昇しているのが原因のひとつらしいのですが、「温暖化との因果関係は認められない」んだそうです。なんだか腹が立ってきますね。
そんななか集まってくれてありがとうございました。
アフレコ台本をわたされるのは養成所のみなさんにとっては将来のことになるのかもしれませんが、夢に向かって頑張りましょう。また来週もよろしくね。
参考文献
レポートの組み立て方 筑摩書房
Voice actor laboratory 声優演技研究所