カンビュセスの籤
「カンビュセスの籤(くじ)」について生徒といろいろ話し合ってます。
終末戦争で人類のほとんどが滅んでしまった世界
人類は地球外文明へ向けてSOSを発信しますが・・・というお話です。
コロナで世界中が大変だけど、世界の国や人びとはおたがいに助け合っているのかな。
おなじ地球人同士でも おたがいを完全に信頼できていないのに、なんの関係もない宇宙人がわざわざ助けに来てくれるのかな。
原作者の藤子不二雄Fさんが言いたかったのは、「この物語のようにならないためにも、みんなで力を合わせて助け合おう」ってことじゃないのかな。
地球を侵略する宇宙人のお話はたくさんあります。地球が生命に満ちあふれた星なら宇宙人は侵略者だけど、たいへんなことになったら宇宙人が助けてくれるって考えるのは甘くないかな。
宇宙人に助けてもらう…つまり【神頼み】するしかない、なんてことになる前に「環境問題」や「気候変動」について、もっと考えてみることが大切なんじゃないのかな。
ファンタジー作品として読み解くか、リアルな物語として現実と照らし合わせて考えるか?
そんな感じで、時事ネタも交えながら生徒たちといろんなことを考えたりしています。
いい世の中になってほしいですね。それでは、また。
解釈の背景
このように考えてしまう背景には、「カンビュセスの籤」(1977年)の4年前に公開されたSF映画「ソイレント・グリーン」(1973年)の影響が、かなりあることを付け加えておきます。
ソイレント・グリーン(1973年)に描かれている時代背景は、2022年!つまり今年です。なんかすげー。
【追記】2022/01/16
伊豆の踊子と処女作の祟りと「ちよ」
処女作の祟り 川端康成
一高の「校友会雑誌」に「ちよ」という小説を出した。これが僕の処女作である。
川端康成の処女作「ちよ」(1919年6月)に、「伊豆の踊子」(1926年1月-2月)の草稿ともとれる文章があります。
「ちよ」川端康成
その金で、丁度一身上の面倒なことで苦しんでいた頭を休めるため、旅に出ることにしました。
十日あまり伊豆の温泉場をめぐりました。その旅で、大島育ちの可愛らしい踊り娘と知合いになりました。
——娘一人とでなく、その一行と知合いになったのですけれど、思い出のうちでは、娘一人と、云いたい心持がしますから。一行の者は、その小娘を、
「ちよ」
と呼びました。
「千代」——
松と、
「ちよ」
私はちょっと変な気がしました。で、はじめて見た時の汚い考は、きれいにすてて——その上、その娘は僅か十四でした——一行の者と、子供のように仲よしに、心易い旅をつづけました。*2
その小娘と、私は極(ごく)自然に話し合うようになったのでした。
私が修善寺から湯ヶ島に来る途中、太鼓を叩いて修善寺に踊りに行く娘に出逢ったのが、はじめです。そして痛く旅情を動かしました。
次の晩、湯ヶ島の私の宿に踊りに来ました。
三度目に、はからずも、天城峠頂上の茶屋の雨宿りに、一行と落ち合いました。一しょに湯ヶ野まで、山を下りました。そこで二三日雨が続いたので、一行と下田に発った時分には、まるで友達になっていました。
私の旅の心も、そんな連中の道づれに、ぴったりしていました。
下田についた翌る日は、矢張(やは)り一行中の小娘の実兄と兄嫁との間に産れて、旅に死んだ赤ん坊の四十九日に当っていました。その心ばかりの法事にとどまってくれと云いました。しかし私の頭には
「千代」——
松氏の死のことがあって、法事なんか、よい気持がしませんでしたので、着いた翌る朝、船で東京に発ちました。
小娘は、はしけで船まで送って、船で食うものや、煙草なんか買ってきて、よく気をつけて、名残を惜んでくれました。その小娘を、私は、
「ちよ」
と呼びました。
伊豆の踊子の“あらすじ”と言ってしまってもいいくらい、そっくりですね。それだけでなく「ちよ」には、前回のブログで紹介した「処女作の祟り」の草稿らしきものもあるのです。
「映画の第一作には、その監督のすべてが凝縮されている」と映画評論家の町山智浩さんが語っておられますが、それは小説家にもあてはまるのかも知れません。*3
と、このときは思っていましたが
「ちよもの」と称される作品たちは、ほぼ同じことの繰り返しが目立つ内容の小説であることが、川端文学を読み進めていくうちに分かりました。
「処女作の祟り」だけじゃなかったんです。
まぁだからこそ「ちよもの」というジャンル分けが出来たんでしょうね。【完全に言い訳です】
【追加】
自分が間違っていたことが分かったら、素直に認める・・・。
この先生は教育者の鑑(かがみ)だと思います。
「マンガだろ!」というツッコミも聞こえてきそうなので「実話」も紹介しておきます。
いいものはどんどん見習って行こうと思います。
よろしければ、こちらもどうぞ。
*1:
川端康成の処女作には「十六歳の日記」(1925年)があります。
十六歳の時の記述 (「十六歳」とは数え年で、満では十四歳である。) に、わずかな説明的な補注をつけただけで原型のまま、川端康成27歳のときに発表されました。
「ちよ」は、1919年に旧制一高の文芸部の機関誌『校友会雑誌』に発表された作品です。
さらに・・・川端が処女作と呼ぶ作品には、第六次『新思潮』の第二号に発表した「招魂祭一景」(1921年4月)もあります。
この「招魂祭一景」によって、菊池寛、久米正雄、佐佐木茂索らに賞賛された川端康成は、作家としての地位が確立され文壇に認められました。
またまたさらに・・・川端が処女作と呼ぶ作品には「篝火(かがりび)」(1924年3月)があります。「時代の祝福」の作中に【——私の処女作は「篝火」という小説でしたが、舞台はこの岐阜です。】という一文があるのです。
*2:
「伊豆の踊子」では、「踊子は十七くらいに見えた」とありますが、物語が進むにつれ「十四歳」だったことが判明します。
*3:
「ちよもの」
川端康成には「ちよもの」と呼ばれる作品があります。成就しなかった初恋の人を扱ったものです。
川端22歳、ちよ15歳の時から交渉があり、翌年結婚話がまとまりましたが、少女の心変わりによって婚約は一方的に破棄され、川端の心に傷痕を残しました。
川端はこの少女に対する恋情をもとにした作品を数多く書いており、川端文学のひとつの分野をなしています。
「篝火(かがりび)」
「非常」
「南方の火」
「霰」
「父母への手紙」
「丙午の娘讃」
「伊豆の帰り」
「日向」
「雨傘」
「写真」
など。この他にもあります。
参考文献
「山の音」解説より 角川文庫
【追記】
「レファレンス協同データベース」のサイトより
質問
(Question)
川端康成の「ちよ物」と呼ばれる一連の作品を読みたい。
回答
(Answer)
『川端康成全作品研究事典』(勉誠出版,1998 一般:910.2/カ)を参照。索引に「ちよ(みちこ)物」の項目がある。
川端康成自身の初恋を元にした自伝的小説で、索引および「篝火」の項目(p.96)に挙げられている作品は以下のとおり。
「絵葉書」(索引より) 「篝火」 「非常」 「霰」 「南方の火」 「生命保険」 「丙午の娘讃」 「恋を失ふ」 「彼女の盛装」 「暴力団の一夜」など
それに加えて、川端康成全集 第五巻 新潮社に収められている「姉の和解」も「ちよもの」だと思いますよ。
伊豆の踊子と処女作の祟りと
ストーカー
川端康成の「みずうみ」はストーカーが主人公なんだよ。変態小説ですぅ。
では、なぜ川端康成は、そのような小説を書いたのでしょうか
処女作の祟り 川端康成
一高の「校友会雑誌」に「ちよ」という小説を出した。これが僕の処女作である。
その頃一高の文科生の間には三越や白木屋の食堂へ女給を張りに行くことが流行していた。僕等は毎日それらの百貨店に通って、珈琲(コーヒー)や汁粉を飲みながら食堂に二時間も三時間も坐っていた。
僕等は名も知れない女給を胸に附けた番号のドイツ読みで呼び、大きい眼が腺病質に潤んだ青い少女を花札になぞらえて「青丹」と呼んだ。三越の十六番(ゼヒチェン)と白木屋の九番(ナイン)とが僕等の人気の中心だった。
僕は友人の松本に言ってやったもんだ。
「カバンさえ提(さ)げてりゃ学校の帰りだと思うよ。同じ方角に家があるんだと思って怪しみやしないよ。そして女の家までつけていけばいいんだ。」
その前の日僕はカバンを提げて白木屋の退時を待ち、九番と同じ電車に乗ったのだった。彼女は金杉橋で下りた。そして、彼女が目黒行に乗換えるのを見ていながら、僕は一つ後の天現寺行に乗ってしまった。前の電車を見失ってから、僕はどこで乗換えたのか分らないが、気がついてみると秋の夕日に色づいた郊外を走っていた。
翌る日も勿論日本橋へ行ってみると、白木屋前にカバンを提げた一高生が呆然と立っているんだ。
松本だ。
僕はからからと笑い転げながら、松本が寮へ帰るのを待ち兼ねて、茶菓部へ引っぱり込んだ。
彼は九番と同じところで電車を下りると話しかけたそうだ。彼女は家へ来て母に話してくれと言いながら、自分の雨傘に入れてくれた。
彼女の家は麻布十番の裏通りのせんべい屋だった。母と弟がいた。娘にはもういいなずけがあって、医学校に通っていると、母が言った。
そして彼女は古村ちよ子というのだそうだ。
そこで僕は彼女に渡せなかった原稿紙十六枚の恋文を破って「ちよ」という小説を書いたんだ。
「処女作の祟り」で、すでに川端康成はストーカーの話を書いていました。
川端康成は一高の生徒でした。*1ウィキペディアによると、似たような出来事は実際にあったようです。ですが小説の内容は架空の物語であると川端康成自身が語っているそうです。
この小説が書かれた当時の大学進学率は10%以下、今よりも学生は信頼されていたのでしょう。そういうこともあって学生がストーカー行為をしても警戒されにくかった時代だったことが考えられます。ちなみに現在の大学進学率は50%を超えています。
そして川端康成の代表作「伊豆の踊子」*2も、ある意味ストーカーのお話だったのです。
伊豆の踊子
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴(はかま)をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。
私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駈(か)け登った。
ようやく峠の北口の茶屋にたどりついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。あまりに期待がみごとに的中したからである。
そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ。
踊子は十七くらいに見えた。
私はそれまでにこの踊子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯が島へ来る途中、修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。踊子は太鼓を提(さ)げていた。
私は振り返り振り返り眺(なが)めて、旅情が自分の身についたと思った。
それから、湯が島の二日目の夜、宿屋へ流して来た。踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段(はしごだん)の中途に腰を下して一心に見ていた。
——あの日が修善寺で今夜が湯が島なら、明日は天城を南に越えて湯が野温泉へ行くのだろう。天城七里の山道できっと追いつけるだろう。そう空想して道を急いで来たのだったが、雨宿りの茶屋でぴったり落ち合ったものだから、私はどぎまぎしてしまったのだ。
川端康成は、みづうみ(1954年1月-12月)で、いきなりあんな内容の小説を書いたわけではなく、伊豆の踊子(1926年1月-2月)や、処女作の祟り(1927年5月)のころからそのような傾向はあったことがうかがえます。*3
川端康成は、伊豆に毎年のように通っていました。人生の豊かな経験が世界に誇る名作へとつながっていったのでしょうね。
*1:
第一高等学校は、現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校。「旧制一高」とも呼ばれる。
*2:
川端康成は、新感覚派の作家としてスタートし、映画にも深い興味を持っていた。
川端の作品に映画的な技法が見られることはしばしば指摘されるところだが、実際よく映画化された。
その代表作が「伊豆の踊子」だろう。
これまでに六回。しかも、踊子の薫(かおる)役は、すべて当時のアイドルばかりである。
参考文献
ノーベル賞なのにィこんなにエロティック?文豪ナビ川端康成 新潮文庫
*3:
「みづうみ」は発表当時のタイトル。
現在は、「みづうみ」と「みずうみ」の両タイトルが出版されています。
人間心理の不思議
作曲・編曲家・音楽プロデューサーの野口義修さんによると、メロディの上がり下がりと、心の情感の高い低いはシンクロしているんだって。
♬ドレミファソラシド
【歌詞】彼女ができたよ
♬ドシラソファミレド
【歌詞】だけどふられた
ドレミのメロディの音階が尻上がりにアップすると楽しく聴こえてうれしい気持ちになるけど、下がると寂(さび)しく聴こえるんですね。
不思議ですね。でも面白いね。
そして演技のテクニックにも応用できるね。
情報元
【✖】パクる方法【◎】オマージュ指南
みずうみ 川端康成
「なに?一週間に二人も男がつけて来るのか。」
宮子は有田老人に手枕させながらうなずいた。
「魔性(ましょう)だねえ。」と有田老人はしばらくしてつぶやいた。
「魔性の女かねえ。そんなにいろんな男がつけて来て、自分がこわくならないの?目に見えない魔ものが、このなかに住んでいる。」
男がつけて来るのは美貌のせいばかりでないことは、宮子自身もわかっていた。有田老人の言うように、魔性を発散しているからかもしれなかった。
「しかし、あぶないねえ。」と老人は言った。
「鬼ごっこという遊びがあるが、男にたびたびつけられるなんて、悪魔ごっこじゃないの?」
「そうかもしれませんわ。」と宮子は神妙に答えて、
「人間のなかに人とちがった魔族というものがいて、別の魔界というようなものがあるのかもしれませんわ。」
「それをあんたは自覚してるの?こわい人だね。怪我(けが)をするよ。尋常の最期(さいご)を遂げないよ。」
「私のきょうだいには、そんなところがあるんでしょうか。女の子のようにおとなしい弟だって、遺書を書いたりするんですもの。」
「どうして・・・。」
さあ、創造力を発揮しよう!
「どうして・・・」のセリフの後、あなたなりの自由な発想で物語を展開すると、セクシーな魔女が主人公の異世界ファンタジー作品ができあがるかもしれませんよ。
パクリのヒント
1.彼女(宮子)をつけてきた男は何者か?「実は宮子を守るために派遣された味方だった」など
2.有田老人は億万長者で宮子をサポートしてくれる。
3.宮子の弟こそが、物語のカギを握る重要人物だった。
う~ん・・・。ちょっとありきたりすぎるかな・・・。
ちなみに川端康成「みづうみ」*1は、異世界ファンタジー作品ではありません。よいこの皆さんは読まない方がいいと思いますので、わたしはおすすめいたしません。
それでは、また。
さらなるヒントを追加
じゃ・・・じゃあ、もう一人キャラを増やしてみようか。弟の啓助が宮子に、清純な少女、町枝のことを話す場面じゃ。
清純な少女
「あんな清らかな少女はいないね。」と啓助は町枝のことを話していた。
「だけど、啓ちゃん、女のほんとうの清らかさなんて、あんたにわかるの?ちょっと見ただけで、わかりゃしないでしょう。」
「わかるさ。」
「どんなのが女の清らかさか、言ってみて。」
「そんなこと言えやしないじゃないか。」
「啓ちゃんがそう見るから、そうなんでしょう。」
「姉さんだって、あの人を見ればわかるよ。」
「女は意地が悪いわよ。啓ちゃんのようにあまくないから・・・。」
<中略>
宮子はなんとなく町枝の手を取った。
町枝の手に触れたとたんに、宮子はあっと声を立てそうだった。
女同士だけれども、なんというこころよさだろう。なめらかにうるおった手の肌ざわりだけでなく、少女の美しさが宮子の胸にしみとおって来て、
「町枝さん、おしあわせそうね。」と言うほかはなかった。
町枝はかぶりを振った。
「あら、どうして?」と宮子はおどろいたように町枝の顔をのぞきこんだ。町枝の目はかがり火にきらきらしていた。
「あなたにも、ふしあわせなことがあるの?」
町枝はだまっていた。
「みずうみ」って、ストーカーが主人公なんだよ。変態小説ですぅ。
わしの話きいてる
しかしこういう文章の抜粋をすると、宮子は超能力を持った魔族としか思えんな。
「みずうみ」の登場人物、宮子はあくまでもふつうの人間です。超能力は持ってません。しかも宮子は主人公ではなく、脇役です。
しかし主人公ではない人物の視点から物語をながめることで、オリジナルの小説とはまったく違う、あなただけの作品が創造できるかもしれませんよ。
妖(あや)しい川端文学 雪国
雪国
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻(えりまき)で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺(なが)めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾(やますそ)に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇(やみ)に呑(の)まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌(ごきげん)よろしゅうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」
「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」
「よろしい。元気で働いているよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩(なだ)れてね、汽車が立往生するんで、村も焚出(たきだ)しがいそがしかったよ。」
「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」
「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」
駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」
「いや。」
「駅長さんもうお帰りですの?」
「私は怪我(けが)をして、医者に通(かよ)ってるんだ。」
「まあ。いけませんわ。」
和服に外套(がいとう)の駅長は寒い立話をさっさと切り上げたいらしく、もう後姿を見せながら、
「それじゃまあ大事にいらっしゃい。」
「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と、葉子は雪の上を目捜しして、
「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです。」
悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂(こだま)して来そうだった。
汽車が動き出しても、彼女は窓から胸を入れなかった。そうして線路の下を歩いている駅長に追いつくと、
「駅長さあん、今度の休みの日に家へお帰りって、弟に言ってやって下さあい。」
「はあい。」と、駅長が声を張りあげた。
葉子は窓を閉めて、赤らんだ頬(ほほ)に両手をあてた。
ラッセルを三台備えて雪を待つ、国境の山であった。
朗読練習用の教材として使われることの多い「雪国」の冒頭部分です。よろしければご活用ください。*1
「雪国」は有名な冒頭以外は、主人公の島村と芸者の駒子との「男女のお話」をメインに展開される小説です。*2
島村は東京に妻子がいます。島村は年に一度くらい雪国の温泉宿を訪れます。そんな島村に芸者の駒子はぞっこんなのです。
そのものズバリな描写こそありませんが、清らかで高潔な物語だと思っていると…おどろきます。
「雪国」一部抜粋
島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡(ぬ)れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂(にお)いを嗅(か)いでみたりしていたが、
<中略>
「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と人差指だけ伸ばした左手の握り拳(にぎりこぶし)を、いきなり女の目の前に突きつけた。
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
火燵(こたつ)の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、
「これが覚えていてくれたの?」
「右じゃない、こっちだよ。」と、女の掌(てのひら)の間から右手を抜いて火燵(こたつ)に入れると、改めて左の握り拳を出した。
彼女はすました顔で、
「ええ、分ってるわ。」
ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
「これが覚えていてくれたの?」
王子さま、この文章の意味わかるのわかっちゃってるの。
おやつあげませんよ
お、おねえさんたちまで・・・
いろんな言葉たち
洪水は我れ亡き後に来たれ
有名な言葉です。フランス王ルイ15世の愛人だったポンパドゥール侯爵夫人の言葉とされています。
世界が大変なことになったらどうするかって?
知ったことじゃないわ。
そんなのはいずれ将来のこと。その時はもうわたしなんかいないもん。
「どうせ洪水が起きるなら、わたしがいなくなってから起きてちょうだい」
先のことは考えない。自分がいる間さえ無事に乗り切れればいい。
そういう意味です。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
ドイツのルター派牧師*1であり反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来する詩です。
いい世の中になってほしいですね。それでは、また。